(26.8.16) 夏休みシリーズ NO13 ピクシーは日本が好きなのだ

(トシムネさん撮影)
(20.4.25)ピクシーは日本が好きなのだ(再掲)
ピクシーことドラガン・ストイコビッチ名古屋グランパスエイト監督は、日本が本当に好きなようだ。
かつてJリーグ発足当初の1994年から2001年までの7年間、名古屋グランパスエイトで選手生活を送ったが、それは彼が29歳から36歳のまだ油が乗っていた最後の時代にあたる。
私は見るスポーツとしてはサッカーが最も好きで、自身は鹿島アントラーズのファンだが、チームを越えてストイコビッチは好きな選手だった。
ストイコビッチは1990年25歳で、W杯イタリア大会のユーゴスラビアのエースとしてチームをベスト8にまで引っ張り上げているし、1998年33歳のW杯フランス大会にも出場しベスト16になっている。
どう見てもヨーロッパの超一流選手が7年間もの間、ヨーロッパや南米のレベルから見ると数段劣る日本でプレーをし続けたのは不思議だ。
しかし私には日本に留まったストイコビッチの気持ちが痛いほどよく分かる。それは彼がセルビア人だったからである。
日本人はセルビア人だからといって特別な感情を持たないし、一般に白人に対しては尊敬の念を抱くが、ヨーロッパでは違う。
ヨーロッパではセルビア人は一種独特の見方をされる。オーストリアの皇太子を暗殺して第一次世界大戦の引き金を引いたのはセルビア人だし、何よりも1991年から始まったユーゴ内戦では、独立を目指すボスニア・ヘルツェゴビナの住民を虐殺した悪魔の国とヨーロッパではみなされた。
実際ストイコビッチ自身もレンタル移籍先のイタリアのヴェローナではチームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラカン・ミロシェビッチ」と罵倒されていたという。
誇り高いストイコビッチがヨーロッパのクラブに愛想を尽かし、日本に渡ってきたのは1994年29歳の時だが、その後彼はヨーロッパのクラブに戻ろうとはしなかった。
日本人のストイコビッチに対する表裏のない声援に彼は初めて安住の地を見出したからだ。
「日本はいい。ここは俺の第二の故郷だ」
それに対しヨーロッパでの彼への憎しみが我慢ならなかったはずである。
「なぜセルビア人だけが非難される。どっちもどっちじゃないか。
俺は二度とヨーロッパではプレーしない」彼はそう誓ったはずだ。
覚えておられるだろうか。1999年にNATO軍がユーゴスラビアの空爆を始めた時、彼はユニホームのアンダーシャツに「NATOは空爆を中止せよ」と英語で書いて、グランドを一周した。
ストイコビッチの熱い血潮が騒いだ一場面だった。
2001年36歳で引退を決意し、引退試合として、ユーゴ対日本の試合が日本で行なわれ、彼はユーゴのエースとして出場した。この試合はユーゴでも放映されたそうだ。
その時の模様を現地にいた旅行者がレポートしていたが、日本人がユーゴスラビアの旗を振り、ストイコビッチに「ピクシー、ピクシー」と惜しみない賞賛をするのを見て、セルビア人は皆泣いていたという。
そしてその旅行者が日本人だと知ると、そこにいた人全員が彼を抱きしめたそうだ。
「俺達のことを認めてくれるのは日本人だけだ」
日本には優秀なセルビア人が来てくれる。オシム前代表監督もそうだが、オシム氏は1990年のイタリアW杯のユーゴ代表監督だ。
その時のエースがストイコビッチだったことは前に述べた。
嬉しいことにストイコビッチは再び来日し、名古屋グランパスエイトの監督を務めている。昨年まで名古屋は低迷していたが、今年は快進撃だ。ストイコビッチの監督としての力量がたしかなものであれば、岡代表監督の次はストイコビッチの呼び声が高くなるだろう。
ストイコビッチは思っているはずだ。
「セルビアか日本の代表監督になってヨーロッパを見返してやる」
日本を第二の故郷としているストイコビッチが日本をW杯でベスト8まで引き上げてくれたらと私は切に願っている。
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