(29.5.5) 子供の日を敬幼の日に変える運動を山崎老人が始めた。
今日は子供の日だ。日本では毎年老人ばかりが増えて子供は絶対的にもまた相対的にも減少している。
私の娘は農村地帯に住んでいるが、今ここの集落で子供がいるのは娘のところだけになっている。あとは大げさに言えば爺さんと婆さんだけだ。
日本の過疎地帯はいづれもこのような状況で、祝うべく子供がいなくなっている。
「ようやくわが部落にもこいのぼりが上がったか」老人が感極まっていた。
今や子供は希少価値で一方老人は雨後のタケノコのように増殖中だ。あまりに老人ばかりになったため千葉市では敬老の日の紅白まんじゅうを配らなくなった。
知り合いの老人が「この千葉市の措置は実にけしからん」と憤っていたが、敬老しようにも老人ばかりではだれがだれを敬老するのかわからないのが実態だ。
日本ではこの希少価値になった子供に対する政策を強化すべきだが、老人パワーを無視できず十分な予算配布になっていない。
子供そのものは生産財でなく消費財だから無理をして子供を作っても苦労するばかりと若者は子供を産まない。
特に問題なのは教育費で、小学校のうちから塾に行かせて教育投資をしないと著名な大学には入れず、その結果まともな職業につけない。
子供を持った親はこうした教育費の支出で生活費を切り詰めている。
もはや敬老の日は不要で子供の日を敬幼の日に変えなければならないほど日本は追い詰められている。
私は老人だから老人対策に重点を置く現行の政治に恩恵を得ているが、しかしこうした政治は明らかに間違いだ。
だが政治を変えようにも老人ばかりがパワーを持っているので幼児対策は遅々として進まない。
老人を無視すると選挙で落選してしまうし、幼児には選挙権はない。
あまりにひどい状況に立ち上がった老人がいる。山崎次郎という老人だが自宅を塾として開放し、中学生と高校生に通常の塾にかかる費用の数分の1程度で教育指導を始めた。
完全に無料でないのは本人も相当程度教育に金をかけなければならず、無料だと本人の生活が困窮してしまうからだそうだ。
現在は4名の児童を教えているそうだが丁寧な指導はこのくらいが限界で一人の老人ができる人員は限度があるという。
山崎老によればこのように一人の老人ができることは限界があるので、こうした取り組みを全国の老人に呼び掛けていて、教育投資で押しつぶされている若者を救うことが即日本を救うことになるという。
「山崎さん、あんた目も悪いし耳も悪いのにそんなに無理をせず温泉にでも入っていたらどうかね」といってみたが目をむいて𠮟られた。
「いいかね、老人の寿命は少ない。人生の最後をお世話になったこの社会のために尽くすのが老人の務めだ。自分だけの喜びで生きようなどというのは老人の風上にも置けない腐った人間のすることで、そうした老人がこの日本を悪くしているのだ」とえらい剣幕だ。
山崎老人の一日はすべてがボランティアといっていいような生活で、毎日6kmもある四季の道を清掃し、壊れたベンチを補修したりペンキを塗ったりし、最近はしていないそうだが四季の道の芝刈りを行い、そして夕方からは子供に勉強を教えている。
「山崎さん、そりゃあんたやりすぎだよ。それじゃ自分の時間が全然ないじゃないか。老後の楽しみもあっていいんじゃないかい」
「いやそれは違う。確かに100%のボランティアはすべての老人にさせるのは無理だ。然しせめて自分の時間の10分のⅠ程度は社会のため、特に子供のために時間を割くべきだ。かつて教会は信者から10分の1税を徴求していたがそれと同じだ」
山崎老人のようにするのは確かに無理があるが、私もせめて10分の1程度は社会に還元する生活をすべきだと思うようになった。
社会にたいする新10分の1税の支払いだ。
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