(28.7.1) 病気療養中のため二日に1回の割で過去の旅行記を掲載しています。「ネパール 布教日誌 その10」
病気療養中のため新しい記事は二日に一回の割合で掲載し、その間は過去の探訪記を再掲しております
(24.9.17) ロドリゴ ネパール日誌 その10 最終稿

かくして10日間に及んだネパールの布教の旅は終ったのでございます。
前にも書きましたように首都カトマンドゥは現在と中世が無理やり同居をしているような街で、バイクや自動車や人力車の騒音があまりにやかましく、通りをおちおち歩けないような蝉噪極まる街でしたのでロドリゴは好きになれませんでした。
一方われらが訪問したディリチョール村には自動車やバイクはまったくなく、すべての荷物はロバか人が運んでおり、道は舗装などどこもされていない泥濘の道で、水は山から引いて下水はそのまま川に流されておりました。
なにか江戸期や明治期のジャポンを彷彿とさせるような雰囲気で、とくに学生(小学校から高校まで)は純朴さながらで知識欲が強く、また身体には脂肪がほとんどないので実に美しいスリムな体形をしておりました。
クナーカ大主教様は「ディリチョールに着くと気持ちが和む」とおっしゃっておられましたがロドリゴも同じ気持ちでございました。
われらが泊まったゲストハウスには学校の英語の先生とその兄弟3名が3畳の部屋に寝泊りしておりました(いくら何でも三畳はせますぎるので、おそらくわれわれがゲストハウスの3室を使ったので一時的な措置だったと思われます)。
先生はさすがに知的な雰囲気で、頼むと英語の教科書と数学の教科書を見せてくださいましたが、意外とレベルは高く数学などはジャポンとさして変わりがないレベルでございました。
しかし生徒は教科書を持っておらず先生がマジックボードに書く問題や事例を帳面に書き写して勉強をしているようでございました。
かつてジャポンでもドイツのターヘル・アナトミアという医学書を杉田玄白様たちが互いに書き写しておられましたが、それとまったく同じなのでございます。
この英語の先生の弟は高校一年生でございましたがロドリゴのする一挙手一動が珍しいらしく私のそばをまったく離れなかったのでございます。
私の手伝いをしようとしてリックの詰め込み作業などを懸命に手伝ってくれました。
私はお礼に持っていたテニスボールや帳面をこの少年に与えましたが、少年の持っている帳面に比べると途方もなくジャポンのそれは高品質だったのでございます。
思えばクナーカ大主教様にネパールの布教を命じられたものの、1年間この村に留まって布教活動をすることができなかったことが唯一の心残りでございます。
ロドリゴはネパール語はナマステとダンニャバードしか覚えられなかったためでございますが、ニワトリの頭としてはそれでも努力をした結果でございます。
ニワトリと言えばここゲストハウスの管理人が飼っていた哀れないじめられっこのニワトリを思い出します。
私だけが頼りだったあのニワトリは一人では餌を食べることもままならない様でございました。
ここネパール西部は秘境の中の秘境で、特に飛行機の便は最悪でございました。
しかしそれだけに残されている自然は手付かずで、クナーカ様のトレッキング・ルート開拓が成功すれば又違った観光面の飛躍があるように思われました。
(3460mのトレッキングルートに放牧されていた牛。なにかスイスの情景に似ていた)
もっともここ10年、ジャポンの観光客はネパール国内の内戦を恐れて減少したままで、その間シナとコリアンの進出が目覚しくなっております。
カトマンドゥの売り子もロドリゴたちを見て「ニー・ハオ」とか「アニョン・ハセヨ」とか声をかけてきますのでジャポンの地位は確実に低下しているように思われました。
クナーカ様の「何とかジャポンの観光客誘致に成功したい」と思う気持ちはロドリゴにひしひしと伝わるのでございます。
今ロドリゴは帰宅後正体不明の湿疹に悩まされており、ダニが身体を襲撃しているのではないかと思って医者に行きましたが、原因は明白になっておりません。
来年ダニの襲撃を撃退できればクナーカ様とトレッキングルートの開拓をしたい気持ちはあるのですが、それは又来年考えることにいたしたいと思っております(終わり)。
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