(29.6.8) 45年前の人生の分かれ道 逃亡生活と安穏な同窓会
昭和46年といえば私が社会人になった一年目の年だから、それから延々と約45年間も逃亡生活をしていたことになる。今回逮捕された大坂容疑者のことだが、中核という極左集団に属し警察官殺害容疑で手配されていた。
当時のことは私たちの年代でないと知らないだろうが、全共闘運動が真っ盛りのころであって、中核や革マルといった極左集団が互いに覇権を争いながら警察と衝突していた。
今では信じられないが多くの知識人がこうした極左運動を支持し、特に羽仁五郎氏は「都市の論理」という書物で思いっきりアジテーションの効いた本を出版していた。
「大学には絶対的な自治権があり、それをもとに政府に抵抗せよ」
しかしあれから45年、すっかり全共闘運動は下火になり大坂容疑者はただひたすらアジトを点々と逃げ回っていたのだそうだ。
いまだに中核という極左冒険主義集団を支持する人がいること自体七不思議だが、かつての中核の運動家が大坂容疑者をかくまっていたという。
こうした感慨にふけるのも昨日(8日)大学時代の同僚と同窓会を持ったからだ。
私が所属していたクラスは約30名いたが、学生運動でクラスが3分化してしまった。今回逮捕された中核派等の全共闘派と反全共闘派、そして政治に無関心派でそれぞれ10名ぐらいづつに分かれてしまった。
私は当時反全共闘派に属しており、今回同窓会をしたのはこのメンバーで7名が集まった。
他のクラスメンバーのうち全共闘派とは口もきかないほど憎しみ合っていたので、卒業後は一切かかわりがなく今どのような生涯をおくったのかさえ知らない。
反全共闘派の10人余りだけが同窓生という認識だ。
同窓会は2年に一回の割合で実施してきたが、今回は昨年に連続して行った。
「山崎がくたばりそうだからまだ生きている間にもう一度同窓会をしてやろう」という配慮からである。
幸いに私は1年間生き延びてきたので配慮の恩恵をよくすることになったが、幹事のA君が東京在住なので、今回は谷中の寺院と上野の寛永寺の散策をすることになった。
谷中といわれても私などは行ったこともなくどんなお寺があるのかまるで無知だったが、江戸時代にここに寺院が集中して集められた場所であり、意外にも外国人の観光客が多い。
寺院めぐりというよりはどちらかというと埋葬されている有名人の墓所を訪ね歩いたといったほうが適切で、谷中霊園に埋葬されている徳川慶喜や長谷川一夫の墓所などを感慨深く見て回ったものだ。
「もうすぐ我々も仲間入りか・・・・・・・・」
メンバーのB君はなかなかの歴史通であって、上野寛永寺の由来や上野戦争や空襲を潜り抜けて現存する仏閣について詳しく丁寧に解説してくれた。
私は何度も上野には行っており動物園や西洋美術館そして国立博物館や国立科学館などには何度も足を運んだのだが、ここに上野東照宮があることを全く知らなかった。東照宮は日光だと思っていたからだ。
規模からいえば日光東照宮にははるかに及ばないが上野東照宮のたたずまいも実に立派で外塀や本殿は私の好きな緑と濃いこげ茶と金色の色合いの配色でありとても気に入った。
「今までなんでこんな立派な建物があったことを知らなかったのだろうか。これならわざわざ日光まで出向いて行くこともなさそうだ」
我々反全共闘派の7名はそれぞれの主要な人生は終わりあとは余暇程度の仕事をしていて完全に引退しているのだが、その間くだんの中核派の大坂容疑者は逃げ回っていたことになる。
全共闘運動は20世紀に咲いたあだ花で、左翼そのものが時代の誤解から発生した狂騒であり、現在のイスラム原理主義と同様の歴史の汚点といっていい。
しかし大坂容疑者はその汚点に染まって45年間も逃亡生活をしていたのだから、完全に人生を棒に振ってしまったといっていい。
同窓会をしながら45年も以上前の人生の分かれ道に思いをはせてしまった。
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