歴史 日本史

(26.10.3) 歴史秘話ヒストリア 徳川家康の子育て奮闘記

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 家康といえばひどいタヌキおやじで豊臣家を滅ぼすためには権謀術数を駆使した印象が強いので、一般的には日本人に人気がない。
一方山岡宗八氏の「徳川家康」を読むと、家康を非常に好意的に書いており、家康は本心を抑えて平和国家をつくりあげるため冷酷にふるまったということになっていたが、それでも私は家康を好きになれなかった。

注)通常日本人は平和は話し合いで仲良く作るものだと思っている。

 先日NHKの歴史秘話ヒストリアで家康を扱い「おやじって大変だ」という番組を放送したので家康の何が大変なのか興味深く見てみた。
家康には16人の子供がいたというから非常な艶福家だが、長男信康、次男秀康、そして三男秀忠についての子育てには非常に苦労したという(その他男には苦労している)。

 長男信康は正室築山殿の子供だが、築山殿は今川家の重臣の娘で生涯家康を軽んじていたようだ(家康は今川家の人質だった)。夫婦仲もよくなく築山殿は息子信康をけしかけて家康との反目を誘うようにふるまったらしい。番組では家康が信康を溺愛したためひどい乱暴狼藉ものになったと紹介されていたが、私は築山殿の存在が大きいと思っている。

 結果的に築山殿は武田家と内通して信康を織田・徳川の連合に敵対させようとしたため、織田信長の命で信康は切腹させられ21歳の生涯を閉じた(築山殿も殺害されている)。昔見たテレビ番組では家康ふんする市川歌右衛門が信康を切腹させる場面で苦悩のあらん限りを演じていたが、この信康切腹事件は本当のところ今一つ分からない。しかし嫡子を失った家康の苦衷は大きかっただろう。

 この結果次男秀康が嫡子になることになった。この秀康は侍女に産ませた子供だが家康の子供の中で際立って優秀だった。しかし運命とは分からないものだ。家康が秀吉の軍門に下った見返りに人質として秀吉のもとに養子に出されることになった。
名前が羽柴秀康となり、それでも豊臣家の中で臆することなく立派に振る舞い、場合によったら秀吉の後継者とまで目されたが秀吉に子供ができて運命が逆転した。
不要になった秀康は関東の名家の結城氏の養子に追いだされ、そこの当主になったのだが、本来ならば徳川第二代将軍になれたのに残念なことだっただろう。

 秀康は武勇と知略に優れ天下分け目の関ヶ原の戦いでは上杉氏をけん制して一歩も越後から出させなかった。上杉氏こそが石田三成が最も期待していた同盟者だったから上杉が動けなかったことが石田三成の運命を決したと言ってもよい。
家康は関ヶ原の論功行賞で秀康の働きを第一に挙げている。

 しかし秀康は他家に出た身だから後継者とすることができず、後継者は三男秀忠ということになった。しかし秀忠は親に似ず凡庸で人がいいだけが取り柄の人間だった。
特に軍略と判断力は最低で個人的に付き合うには楽しい人だが天下を治める器とは言えなかったようだ。
家康は何とかして秀忠を後継者らしく育てようとしたが効果がなく、特に最悪だったのは関ヶ原の戦いの時に徳川の主力3万8千を関ヶ原にまに合わせなかったことだ。

 秀忠は中仙道を主力徳川軍を引き連れ、一方家康は福島正則といった本来豊臣恩顧の武士団を引き連れて東海道を関ヶ原に向かったのだが(いつ寝返るかわからないので見張る必要があった)、秀忠は関ヶ原に集結することを忘れて信州で真田軍と戦闘などをしていっこうに関ヶ原に現れなかった。
家康は仕方なく豊臣恩顧の武士団を中心に石田三成と決戦せざるを得なくなり、結果的に多くの外様大名に論功行賞をしなければならなくなった。

注)当時は道が狭かったので多くの軍団を進めるためには道を分けて進軍する方が早かった。

 「あのバカが、こんな大事な時に現れないとは何という無能!!
私は徳川幕藩体制が外様大名、親藩、天領に分かれているのが不思議だったがこの関ヶ原の戦いを外様大名主体に戦った結果だと知った。
もし徳川の正規軍が石田三成を蹴散らしていたらもっと徳川家の権力が強化され、ちょうどフランスのブルボン王家のような存在になった可能性があった。しかし秀忠の無能さがその可能性をつぶしてしまった。

 また家康が徳川幕府の政治を老中中心の合議制にして将軍の絶対権力を認めなかったのは、秀忠があまりに無能で心もとなかったからで、「秀忠に任せたら徳川がつぶれる」と家康が心配したからだ。
家康の長男は反逆容疑で切腹させられ、次男は優秀だったが秀吉に人質に取られ、後継者になった秀忠は無能だったから、家康も確かに親父として苦労したことが分かる。

 歴史はよく必然だという人がいるが私はその説にくみしない。歴史とは偶然の事象が互いに絡み合った結果の最適解であって、結果から見ると必然のように見えるが発生している時はすべて偶然の事象だといえる。
徳川幕藩体制はたまたま秀忠がアホであった結果生まれた体制だと私は思っている。

別件)第4回ちはら台・おゆみ野ハーフマラソンのお知らせ(一部コースの変更)。

以下の日程でハーフマラソンを開催いたします。
① 10月5日(日曜日)
② 午前10時スタート(雨天決行.受付は9時半から)
③ スタート・ゴール ちはら台走友会のかずさの道の集合場所(前回と同じでセンドーのうえ。地図参照)

下記のルートを一部変更しております。当日かずさ道で敬老会が行われるそうで調整を行ったものです。具体的なルート変更は当日説明いたします(26.9.28)。


ルートは以下の地図で確認できます

http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=6d18ea2157947c484ad9c4ec04b246ef
④ 費用300円(実費)
⑤ 参加希望者はこのブログのコメントかメール機能を使用して参加希望を連絡してください。

⑥ なお本大会はすべて自己責任です。






 

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(26.5.1) BS歴史館 江戸のスーパースター 葛飾北斎

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 BS歴史館
で江戸時代のスーパー日本人として葛飾北斎が採りあげられていた。北斎は江戸後半期を代表する浮世絵画家だが、通常の浮世絵が美人画や役者絵だったのに対して富嶽三十六景という風景画であったところが違う。
北斎を中心とする日本の浮世絵は幕末日本にきた西洋人が好んで購入した土産品で、これがヨーロッパに広く行き渡り、特にフランスの印象派の画家に強烈なインパクトを与えた。

 ゴッホマネの作品に浮世絵の模写がよく描かれているが、作曲家ドビッシーは北斎の最高傑作の一つ「神奈川沖浪裏」を見て交響詩「」を作曲している。
アメリカの雑誌LIFEが選んだ「過去1000年に世界を作った100人」の中に唯一選ばれた日本人がいるが、それが葛飾北斎である。
世界の絵画史や芸術に与えたその影響力を評価されたのだが、ゴッホは感極まって「日本の芸術を研究すると賢く哲学的で知的な人物を知ることができる」とまで言い切った。

注)「神奈川沖裏波」をイメージできない人は以下参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E6%B2%96%E6%B5%AA%E8%A3%8F

 今でこそ浮世絵は江戸時代を代表する芸術と認められているが、当時の江戸市民の感覚はそれとは程遠く、私たちが漫画やアニメを見る感覚で浮世絵を見ていた。
当時の正統派の絵画は幕府や朝廷と言ったパトロンが控えていた狩野派や土佐派や琳派であって、一方浮世絵は一杯のかけそばの値段で購入できる庶民のプロマイドに過ぎなかった。

 現在の日本においても美術館で飾られているのは絵画や彫刻が主体だ。
私は手塚治虫火の鳥さいとう・たかをの「ゴルゴ13」や白戸三平の「ワタリ」や「カムイ伝は日本の誇る最高芸術作品だと思っている。しかし現在の日本人がこうした漫画を必ずしも日本を代表する芸術とは思っていないように、江戸庶民も浮世絵を一段低い芸だと思っていた。

注)日本の総理大臣の中で麻生太郎氏だけは漫画やアニメに強い共感を持っていたが、一方マスコミからは漫画ばかり見ているからまともに漢字も読めないと揶揄されていた。

 また葛飾北斎は大変な奇人だったらしく、生涯に93回も家の引っ越しをしたが家を片付けることをせずちらかしぱなしにしたため、住環境が崩壊してしまったからだという。
家族はいたが家族も相当な奇人だったらしく、北斎に代わって家を整えることは全くしなかったらしい。
北斎自身は布団をひっかぶりながら絵を描いていたが、ゴッホがこれを見たら腰を抜かしただろう。
本当にこれが私の愛した哲学的な北斎か!!!」

 しかし北斎の絵画に対するセンスは他のどの浮世絵師よりも抜きんでていた。当初は勝川派に弟子入りしたのだが飽き足らず、狩野派、土佐派、琳派に教えを乞い、そして西洋絵画の遠近法までもマスターしようとしていたのだからすごい。
北斎の風景画の傑作富嶽三十六景は1831年から数年をかけて出版されたのだが、当時北斎は70歳を過ぎていた
北斎はこの富嶽三十六景を海外(中国)から輸入したベルリンブルーという絵具を利用して描いたのだが、このベルリンブルーなくしては北斎の風景画はなかったという。

 私は全く知らなかったが浮世絵には赤が多用され、その色彩の再現力は素晴らしかったが、一方青は全くダメで日本の絵具を使用する限り青は色落ちしてすぐに使い物にならなかったという。
それに対し西洋絵画で使用されていたベルリンブルーは青の発色が抜群で色落ちがなかったため、風景画を作成するのに最適な顔料だった。
このベルリンブルーが幕末時期には中国経由で日本に多量に輸入されたことが北斎に幸いした。

 当時の江戸市民にとってこの富嶽三十六景は一種の旅行案内書のようなものだったらしい。この浮世絵を見て市民は「今年はぜひ赤富士を見るために富士山参りをしようじゃねいか」などと相談していた。
富士山のお参りは富士講と言ったが、今でいう旅行社で一年間費用を積み立て、その資金で講が準備した旅行日程で富士山登山を行っていた。

 江戸時代は一般に他国に旅行するのは幕府が統制していたため極端に難しかったが宗教的な旅行お伊勢参り、冨士講登山等)は許されていたので、これを理由に庶民は観光旅行をしていた。
旅行者は富嶽三十六景と実物を見比べながら富士山に向かっていたらしい。

 北斎は生涯に北斎漫画やこの富嶽三十六景などの傑作を残し90歳の長命で、ペリーが日本にやってくる4年前に死亡している。
最後の言葉は「天があと10年、いや5年の命を与えてくれるなら、真の絵描きになれたのに」という言葉だが、北斎は最後までまだ自分が真の絵描きだとは思っていなかったらしい。何ともすさまじいまでの生き方だと思う。

注)北斎の作品は以下参照
http://bakumatsu.org/blog/2012/12/hokusai.html

 

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(26.4.13) NHK 秀吉の聚楽第の再現 巨大な城だとは知らなかった!

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  ほんとかい!! 
目を見張った。豊臣秀吉が京都に建設した聚楽第じゅらくてい)のことである。聚楽第を建築した目的は秀吉が関白を拝命されたことから京都に邸宅を構えることになったためだが、私は当初京都の公家の屋敷のようなものだったと思っていた。

 ところが今回NHK歴史ヒストリアで再現されたCG(コンピュータ・グラフックス)を見て心底驚いた。
ほとんど大阪城と同じ堅牢な城だったからである。
何、秀吉は大阪でなく京都を本拠地にしようとしてたのか???

 応仁の乱で荒れ果てていた京都を現在のような京都に再興したのは秀吉だという。
当時の京都は人口3万程度の田舎町しばらく前のおゆみ野レベルだ)に過ぎず、「汝や知る 都は野辺の夕雲雀 上がるを見ても 落つる涙は」と歌われたほど麦畑が広がっていた。
ここを往時の雅な京都に復活するため、秀吉が京都大改造計画に乗り出したという。

 京都に聚楽第という巨大な城を元の御所の跡地に建設し(1587年)、各地の大名の邸宅を作ってその妻子を京都に住まわせ、町人町を作って町人を呼び寄せ、さらに京都の周りに約5mの土塀を23kmにわたって張り巡らしたという。
私は日本には城壁が存在しないと思っていたが土壁とはいえ京都は城壁に囲まれた都市になっていた。

 おかげで京都の人口は一挙に増えて3万人が10万人にまでなり、当時としては大都市に変身した。
そして1588年には時の後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させている。
みよ、私こそが天皇を凌駕するこの日本の支配だ」天皇を自宅に御幸させることができるのが真の日本の支配者だという意味である。
秀吉は京都を後の江戸と同じように大改造を図って日本の首都にしようと思っていたようだ。

 ところがこうした計画が一挙に崩壊したのは豊臣家の後継者争いのせいだが、はっきり言えば秀吉がぼけたからである。
当初秀吉はこの聚楽第で政務をとっていたが、1591年関白職を甥の秀次に譲って城は関白秀次の居城とし、自身は大阪に城を作って引きこもった。
このあたりは家康が秀忠に家督を譲って駿府に引きこもったのと似ているが、実際は秀次は何の能力もなかったので実質的な政務はすべて秀吉のいる大阪城で行われた(秀次はただ京都の見張り役としての位置づけしか得られなかった)。

 しかし聚楽第はその壮麗さで当時の大名の美意識を刺激したらしく、毛利の広島城や家康の江戸城の原型になったという。特に壁の色に特色があり、異色の白塗りだった。この時代白塗りの漆喰は腐食が激しくて城の外壁には適さないと言われていたが、この聚楽第で技術的ブレークスルーがあったのだろう。

 この豪華絢爛たる城はルイス・フロイスによってヨーロッパにも知られており、内部は金をふんだんに使用した黄金の国ジパングそのものであったらしい。
ところが聚楽第は建築後8年で当の秀吉によって徹底的に取り壊され跡形もなくなってしまった
なぜ秀吉がそんな無駄なことをしたのかと言えばすべてわが子秀頼のためで、さらに言えばボケが始まっていたからだと思う。

注)私は晩年の秀吉はアルツハイマー病にかかっていたのではないかと疑っている。

  秀頼が生まれると甥に関白職を譲ってしまったことを悔いた。
何ということだ。豊臣の跡継ぎをあんな何のとりえもない秀次なんかに譲って俺はバカだ!!
何の咎もなかった秀次を罪をでっち上げて切腹させ、さらに妻妾30名余りを京都の三条河原で斬殺した。1595年のことである。
太閤様、ご乱心」この光景を見たほとんどの人がそう思った。

 秀吉はその3年後の1598年には死亡しているからこのころはボケがかなりひどく進んでいたと思われる。
聚楽第を徹底的に破壊させた目的は秀次の記憶をこの世から完全に抹殺しろ」と秀吉が命じたからだ。
この城を創るために資金と人員を動員された諸大名はこの秀吉の命令を聞いて「太閤様の政権はながくないな・・・・」と感じたと思われる。

 秀吉が死亡した2年後には関ヶ原の戦いで実質的に豊臣政権は終わったが、秀次がたとえどんなに無能であったとしてもそれを殺害したのは騒乱のもとを作ったようなものだ。
これをそばで見ていた家康は後継者の秀忠がどんなに無能で軍事センスがゼロであっても廃嫡することはせず二代将軍に指名している。
秀吉の二の舞だけは避けよう」冷静な家康らしい判断だ。

 かくして聚楽第は豊臣政権の栄華と没落の象徴のような城となった。

別件1) 第2回ちはら台・おゆみ野ハーフマラソンのお知らせ

以下の日程でハーフマラソンを開催いたします。
① 4月27日(日曜日)
② 午前10時スタート(雨天決行)
③ スタート・ゴール ちはら台走友会のかずさの道の集合場所(前回と同じでセンドーのうえ)
④ 費用300円(実費)
⑤ 参加希望者はこのブログのコメントかメール機能を使用して参加希望を連絡してください。


*本件はかずさの道や四季の道を使用したハーフマラソンを開催するための準備大会です。


別件2) 現在おゆみ野クリーンクラブのカンパを求めております。その資金を基におゆみ野四季の道の清掃活動やベンチの補修を行っております。ご協力をいただければ幸いです。

カンパの送付先

・千葉銀行 鎌取支店(092)
・おゆみ野クリーンクラブ 普通預金口座(3743511)

・郵貯銀行 店名 058 (ゼロゴハチ)
・おゆみ野クリーンクラブ 普通預金口座(3695852)


なお、おゆみ野クリーンクラブの活動の実態は以下を参照してください。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-9bc7.html


 

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(26.4.12) NHK 英雄たちの選択 卑弥呼の外交政策

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  2世紀後半から3世紀初め
にかけての卑弥呼の時代をイメージすることはかなり難しい。
弥生時代から古墳時代への移行期だと言われても、「だから何なの」という感じだ。
だがこの時代は意外にグローバルな時代で、中国や朝鮮半島の情勢がそのまま日本()の情勢に影響すると言った、現在に似た時代だったらしい。

 その倭に異常気象が襲ったのは2世紀後半で、大雨と干ばつが交互に襲い当時の稲作技術ではこの自然災害に対応できなかった。
稲作が全滅して飢餓に瀕した部族が隣の余裕があるとみられた部族を襲って食料を強奪したため、血で血を洗う命を懸けた戦いになった。
その時代の集団埋葬地を発掘すると明らかに殺害された人骨の山が出土している。
後漢書東夷伝に出ている「倭国大乱」の時代である。

注)中国の史書に東夷の倭の大乱が記載されていたのはとても不思議だが、倭の族長が後漢の帯方郡(朝鮮半島の植民地)に定期的に使者を送って報告していたらしい。

 あまりに激しい部族戦争が続いてさすがにこれでは問題だと気付いた倭の30か国の族長たちは停戦を行い、邪馬台国連合を結成してそのトップに卑弥呼を据えた。
卑弥呼は著名なシャーマンだったらしく、「まあこの人なら丸く収まるのではなかろうかと期待されたらしい。二世紀後半のことである。

 卑弥呼はその期待に応えるべく邪馬台国連合を確固なものとしようと外交工作に乗り出した。当時の朝鮮半島には中国の植民地である帯方郡が設置されていたのでそこに使者を送っている。
倭が国際化しなければならなかった一番の理由は稲作をするための農具の鉄の確保が必要だったからという。
鉄製品の確保は現在の石油や天然ガスの確保と同じ重要性を持っていた。

 鉄などと聞くと現在の日本は世界有数の鉄の生産国だが、当時は全く製鉄技術がなく鉄製品(刀剣や農機具)はもっぱら現在の朝鮮半島(当時は帯方郡や楽浪郡)経由で入手していた。
鉄を抑えたものが部族の盟主になれたから、当然卑弥呼は邪馬台国連合の長としてこの鉄の輸入ルートの確保に狂奔した。

 だが問題は中国側にあり、あれほど強大だった後漢が220年に滅亡し魏呉蜀の三国志の時代に突入したことだ。後漢の衰退がはじまったころ朝鮮半島は後漢の地方官だった公孫氏によって実質的に支配され、いわば独立国家のような状況になっていた。
倭の族長たちは帯方郡との深いネットワークを持っていたので、帯方郡が公孫氏によって支配されるようになると当然のこととして公孫氏に朝貢することになったようだ。

注)この時代の公孫氏政権をイメージすることも難しい。後漢から独立した地方政権で、あえて言うと現在のウクライナのようなものだったのだろうか。

 卑弥呼にとっても公孫氏とのつながりがあれば鉄器の輸入ルートが確保できるので邪馬台国連合としては安定を保つことができていたという。
しかしそうした公孫氏による平和が崩壊したのは238年で、魏が公孫氏を滅ぼし帯方郡が魏の支配下にはいったからだ。
まずいではないか、公孫氏が滅んだ以上公孫氏に朝貢していたことは無駄になったし、鉄器輸入ルートも崩壊してしまったではないか・・・・・・・」卑弥呼の苦悩が始まったという。

 帯方郡は魏が支配したので今度は魏とよしみを通じざる得ないのだが、卑弥呼はかなり逡巡したらしい。
軍事力抜群の魏に服属するのが一番安全だが、果たして魏は邪馬台国連合を認めて王の称号を与えてくれるだろうか。
もし魏が倭を粗略に扱うのであれば邪馬台国連合は呉とよしみを通じた方がよいのではないか・・・・・・・・

 結局卑弥呼は魏への朝貢という選択をするのだが、倭の朝貢使を迎えて魏は小躍りして喜んだ。当時はまだ公孫氏が最後の抵抗(ゲリラ戦)をしていたころだったから、公孫氏の朝貢国だった倭が魏に朝貢使を派遣してきたことがよほどうれしかったのだろう。
親魏倭王」の称号を卑弥呼に与えて中国の冊封体制の末端に入ることを認めてくれた。
番組の出場者はこれは卑弥呼外交の勝利だと称賛していたが、邪馬台国連合が魏の冊封体制に入ったということはいざというときは魏が軍隊を派遣して守ってくれるということを意味する(実際は間に海があるので魏の増援は不可能だが、精神的支えにはなる)。

注)私は朝貢すれば誰にでも「王」の称号を与えてくれるものと思っていたが、相手を見て選別しており公孫氏が魏に朝貢した時は「公」の称号(魏の地方官)しか与えていない。

 当時邪馬台国は狗奴国連合と敵対関係にあり実際戦闘も行われていたが、邪馬台国は倭の王としてのお墨付きをもらっていたので国内の戦争においても優位な立場に立っていたという。
卑弥呼の外交は魏との朝貢関係を築くことで経済的には鉄器の輸入ルートの確保、政治的には中国の冊封体制の末端を形成して戦後日本のような長い平和な時代を築いたという。

 今回の番組「英雄たちの選択」を見て1800年前の昔も今も日本()にとっての外交上の大問題は中国で、中国とどのように付き合っていくかが当時の族長の第一の関心事だったことに驚く。

注)なお魏志倭人伝の詳細は以下参照
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/b-c184.html

別件)現在おゆみ野クリーンクラブのカンパを求めております。その資金を基におゆみ野四季の道の清掃活動やベンチの補修を行っております。ご協力をいただければ幸いです。

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なお、おゆみ野クリーンクラブの活動の実態は以下を参照してください。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-9bc7.html

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(26.4.4) NHK 歴史秘話 「清少納言 悲しき愛の物語」 私はひどい誤解をしていた!

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(江戸川の旧上水場)


  ひどい誤解をしていたようだと反省した。清少納言のことである。
私は高校時代に枕草子を読んだころから清少納言をあまり好きになれなかった。
清少納言は好き嫌いがはっきりとしていて、自分の教養におぼれて男を馬鹿にしているように思えたからだ。
これは私だけがそう感じたわけではなく同時代人の紫式部でさえ日記に「清少納言は自分の教養をひけらかしてばかりいる」と言っていたから一般的な評価でもあったらしい。

 さらに私は百人一首に残されている清少納言の歌と紫式部の歌を比較対象してその気持ちを強くした。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ」 清少納言
意(あなた、そんな鶏のまねをして この逢瀬の関を開けようとしても無駄ですよ。私はあなたにそんな気持ちはないのですから)

めぐりあいて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かげ」 紫式部
意(久しぶりにあえてじっくりお話をしたかったのに、夜中の月影が雲に隠れるようにあなたは去ってしまった。とてもさびしいわ。ただしこれは友達を送った時の歌)

 私はこの二首を読み比べて女性であれば紫式部のような女性が一番で、間違っても清少納言のような女性とは関わりたくないと思ったものだ。

注)こうした和歌については前に一度ブログ記事を記載したことがある。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/20629_5163.html

 しかしそうした評価は歴史秘話ヒストリア清少納言 悲しき愛の物語」を見て表面的な評価だったことを知った。
清少納言にとってはどうしても強気であでやかでなくてはならない事情があったからだ。

 清少納言は28歳の時に時の一条天皇のきさきだった定子(17歳)のもとに女房として参内することになったのだが、それは清少納言が教養豊かな女性だとの評判が立っていたからだという。
清少納言は清原元輔の娘だが、元輔は山口県の周防国の国主として赴任しており、清少納言は思春期を周防で過ごしたようだ。
元輔は非常な教養人で和歌の腕も一級だったのでその教養を娘に託した。

 息子でなく娘をトレーニングするというのは何か不思議な気がするが、当時は天皇のきさき(藤原氏の実力者の娘)がそれぞれサロンを持っており、そのサロンに娘を送り込めば藤原摂関家の実力者と懇意になれて、実入りのいい国司の職が得られた。
清少納言が参内した定子は時の関白藤原道隆の娘で、当然その子供は天皇になるものと思われていたが、道隆が病死するとその子の伊周これちか)と藤原道長(道隆の弟)の激しい政争になり、伊周は道長に敗れて配流されてしまった。

 清少納言が定子に仕えた当初の3年間は華やかのものだったが定子の父道隆が死去し、次いで兄の伊周が道長の政争に敗れると、定子の地位は一挙に危うくなり道長の娘の彰子が実質的な皇后となっていった。
定子の館は何者かによって放火され、再建する資金もなく知り合いの貴族の家に間借りする毎日になってしまったという。
当時は天皇家に資産はなくきさきの住居や生活費は親許(藤原氏)が全部拠出していたので、親許が廃れると当然生活が一気に厳しくなってしまう。

注)放火は定子をきさきの地位から追い落とすための道長派の陰謀だった可能性が高い。

 そして定子のサロンのNO1女房としてふるまっていた清少納言は道長と親しい公達と深い関係を持っていたため、定子の他の女房からは道長一派ではないかと噂され、定子のサロンにいることができなくなった(このあたりも道長が裏で仕掛けた可能性がある)。

注)定子も清少納言も当時一流の教養人だったため漢文の素養もあり、互いに尊敬しあってサロンをささえていた。

 こうしたうわさを逃れるために清少納言は父の館に引きこもったのだが、一方定子はますます窮地に追い込まれて住む家はさらに貧弱になり(だから天皇は通ってこなくなる)、サロンを支えていた女房も将来性のない定子のそばから次々にさっていったという。
定子様を支える人が誰もいなくなってしまう。私が支えなければどうなる
こうした窮地を見て清少納言は定子の女房に復帰し、それから孤軍奮闘が始まったという。

 定子から下賜された白地の巻物(当時は紙は非常に高価だった)に定子との楽しい思い出話を書いて定子を励まそうと決心したらしい。
私は絶対定子様を見捨てない。道隆様が健在であったころのあの華やかだったサロンをもう一度復活して定子様の気持を少しでも和ませよう

 枕草子に定子の零落が書かれていないのはこの物語の目的が定子のこころを奮いたたせるためだったからだという
清少納言は随筆を書く傍ら神社仏閣にお参りを繰り返し、定子の行く末を祈念したが、現実の政治は道長がこの世をば わが世とぞ思う」ほど権勢をほしいままにしたから、定子の復活はあり得なかった。

 それでも清少納言は定子が死去する24歳(清少納言は足かけ7年間定子に仕えたことになる)まで定子に仕え、今でいう文学の力で定子を守ろうと決心し、定子亡き後もひたすらその思い出を確かなものにするために枕草子を完成させた。
「定子様こそが本当のきさきで彰子様ごときに負けてなるものか」なにか清少納言の気迫のようなものを感じる。

 私はこうした清少納言の悲しみを知らなかったから、ただ気の強い嫌な女だと思っていたが、それがひどい誤解であることを今回知った。
1000年の時を隔てて清少納言のこころを知り、けなげにも強気であらねばならなかったこの人に今はいとおしさを感じている。

注)なお日本史にかかるブログ記事は以下にまとめて入っております。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

別件)現在おゆみ野クリーンクラブのカンパを求めております。その資金を基におゆみ野四季の道の清掃活動やベンチの補修を行っております。ご協力をいただければ幸いです。

カンパの送付先

・千葉銀行 鎌取支店(092)
・おゆみ野クリーンクラブ 普通預金口座(3743511)

・郵貯銀行 店名 058 (ゼロゴハチ)
・おゆみ野クリーンクラブ 普通預金口座(3695852)


なお、おゆみ野クリーンクラブの活動の実態は以下を参照してください。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-9bc7.html

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(26.3.19) BS歴史館最終回 足利尊氏の開いた室町幕府

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 私が初めて歴史を学んだとき最も不思議だったのはなぜ室町幕府はこれほど弱体だったのかということだった。
それは鎌倉幕府江戸幕府と比較してみると一目瞭然で、将軍の所領はほとんど存在せず、幕府の高官が互いに将軍を担いで権力闘争を行い、将軍はしばしば殺害されるありさまでどう見ても幕府らしからなかったからだ。

 結果的に分かったのはこの室町幕府を創設した足利尊氏がほとんど権力に執着しなかったからだとその理由を知った。ただし全く執着しなかったというのは間違いで時には権力志向になるがすぐに嫌になって、「もうやだ、俺は引退して和歌を作っていたい」なんて気分になって引きこもってしまう、なんとも気分家の性格だった。

 尊氏は実に権力者らしからぬ人物だったが、鎌倉幕府の筆頭御家人清和源氏の流れを引く由緒正しい家柄で鎌倉幕府の大番頭北条氏などは及ぶべくもない家柄だったことが、北条氏に弓を弾く大きな原因になった。
本来ならば俺が源氏本家を次いで北条氏に代わって幕府を開くべきではないか・・・・・」そう心の底で思っていた。

 機会が訪れたのは後醍醐天皇が中国の朱子学を学んで神がかりになり北条氏討伐の綸旨を流したからで、すぐさま幕府は後醍醐天皇を捕縛し隠岐の島に島流しにした(1332年)。
通常はこれで一件落着になるはずが、後醍醐天皇の息子護良(もりなが)親王が挙兵し、一方後醍醐天皇も隠岐を脱出して鳥取に陣取り、さらに天皇派の楠正成が千早城で幕府軍を苦しめたりしていたので、幕府は今度は本気になって足利尊氏を総大将とする大軍団を送ることにした。
今度は徹底的に後醍醐天皇側を掃討する!!

 この時太平記によると尊氏は「父親の喪があけておらず、一方病気がちなのに総大将にさせるなんて北条氏はひどい」と恨みを持ったということになっているが、これはほとんどありえない。喪中だから戦闘をしないのは中国の儒教、それも朱子学の影響だが尊氏が朱子学の徒だという証拠はない。
それよりも京都方面に向かう途中で千早城攻めで失敗した鎌倉方の敗残兵にあうにしたがって、「これはどうも鎌倉幕府もガタが来たな。それなら俺が幕府を開こうか。俺は由緒正しき清和源氏だ」と思ったのだろう。

 しかも後醍醐天皇の綸旨護良親王の令旨では北条氏を討てとなっているので、大義名分はある。さっそく幕府の京都出張所六波羅探題を襲ってこれを一蹴すると諸国の御家人はみんな反北条氏になってしまい、1334年に北条氏は鎌倉で全員討死してしまった。
これで頼朝や家康ならさっそく幕府を開くところだが、尊氏は全くその気がなくなったのか以降2年間は神がかりになった後醍醐天皇の新政のサポートをしている。

 後醍醐天皇は朱子学の教義に則り徳治政治を行うつもりだったが、一方ですべての所領争いは後醍醐天皇が裁断するとしたので、案件が山のように積み上がり事務処理どころではなくなってきた。あまりの事務の多さに根を上げて翌月にはこの命令を取消、「今のままで良しとしろ」ということに変えた。
実際は後醍醐天皇は側近の公家に所領を分配してしまったために、反北条に立ち上がった御家人に分配する所領などなかった。

 収まらないのは尊氏に従って北条氏を倒した御家人だ。
なんで恩賞が無いんだ。北条氏の所領を分配すればいいじゃないか。尊氏殿何とかしてくだされ」ということになった。

 ちょうどその時期に北条氏の残党が決起し鎌倉を攻めて占領したため、後醍醐天皇は尊氏に北条氏の掃討を命じたが、さすがに人のいい尊氏も今度は「うん」と言わなかった。
私に征夷大将軍の称号と恩賞を与える権利を賜りたい
当時戦いに勝利すれば恩賞を与えるのが決まりでこの権利を持つ者こそが本当の支配者だったので、後醍醐天皇は拒絶した。
駄目だ、恩賞は天皇みずから与える

 尊氏は天皇の命令を無視して鎌倉に出向き北条氏の残党を一蹴して従った御家人に恩賞を与えたのだが、これに後醍醐天皇が激怒した。
あのやろう、俺の徳治政治を無視してまた鎌倉に幕府を作るつもりだな!!
今度は後醍醐天皇は尊氏追討の綸旨を出したので、尊氏はそんなつもりはなかったのですっかりしょげかえってしまった。
実際は尊氏の動きを陰で操っていたのが弟の直義ただよし)で、将軍職も恩賞の件も直義の進言に従っただけだったので尊氏は後醍醐天皇の怒りが理解できなかった。

直義、俺はもうやだ。天皇には誤解されるし、寺にこもって和歌を作るから政治向きのことはお前に任せる
しかたなく直義は足利軍を率いて尊氏掃討軍に対抗したが直義は戦闘には全く向かないタイプで掃討軍に蹴散らされてしまった。
兄さん、あんたが出なきゃ勝てないよ。寺にこもっていないで戦闘に出てくれ」

 尊氏が寺から出たのは「弟の命を救うため」だったから何とも武士としては優しすぎる。
尊氏はその後の戦闘にも勝利し後醍醐天皇を破って室町幕府を京都に開いたのだが、本当は幕府の将軍になどはなりたくなかったようだ。
政務は直義にまかす」といってもっぱら和歌を作っていた。

 なぜこの時期から南北朝が始まったからというと、尊氏が後醍醐天皇を死に追い込まなかったからだ。
まあいろいろ事情もあるのだろう。後醍醐天皇の都合もあるだろうから好きないさせよう。こっちはこっちで天皇を立てればいいや」相手を徹底的に追い詰めないところが家康と違う。
おかげで後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開き以来60年にわたって南北朝の時代となる。

 やはり幕府の性格はその創設者の性格によって全く異なったものになる。何事も大雑把でものに拘泥せず、敵方を簡単に許してしまう尊氏の性格がその後の室町幕府の弱体化を招いた。何しろその後の将軍は尊氏のような戦闘上手でなかったから権威だけで生きていかなくてはならなかったからだ。
BS歴史館最後の登場人物は足利尊氏だったがこの人を最後にしたのはBS歴史館も皮肉が効いている。
激動の時代は思わぬ人物が権力者になってしまうということだ。

なお日本史のシリーズは以下にまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

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(26.3.10) BS歴史館 大教育者吉田松陰 松下村塾の白熱教室

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  BS歴史館「スーパーティーチャー吉田松陰 松下村塾は幕末の白熱教室」はなかなか面白かった。私は吉田松陰の名はよく知っていたし、幕末に果たした松陰の役割もそれなりに理解していたつもりだが、かなり表面的だったと知った。
久坂玄端、高杉晋作、山形有朋、伊藤博文と言った幕末と明治を代表する志士や政治家を生んだくらいの知識で、なぜ松陰がこれほどの影響力を与えたのかは分からなかった。

 松陰が行っていた教育の方法論は徹底した討論方式で塾生に対し「君は何のために生きるのか、どう生きるのか」を徹底的に討論を行い、時に涙し時に激昂して世のふけるのも忘れたほどだという。
ハーバード大学の白熱教室に近いが、さらに情熱的なものだったという。

 私は松陰は最初から松下村塾の教師で長い年月教師をしていたのだと思っていたがこれは誤解だった。
叔父の松下村塾を引き継いだのが1857年1958年には閉鎖されているから足かけたった2年に過ぎない。
この2年間で幕末と明治を代表する俊才を生んだのだから大したものだ。
松陰は松下村塾を開く前は佐久間象山に弟子入りし、象山とともに1953年浦賀でぺリ-来航の黒船をじかに見たり、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した時にロシアに密航を企てようとしたりしている。

 そして1954年のぺリ-の再来航の折には友人の金子と二人でペリーのポーハタン号に乗船を依頼し再び密航を企てようとした。
最も2回目の密航計画は本気かどうか分からず、密航を装ってペリーを殺害しようとした可能性が高い。
というのもそのあとすぐに浦賀奉行所に自首をして幕府の伝馬町の牢につながれているからだ。

 本当に密航しようとしたならば幕府に知られることはご法度だから、これは幕府に代わって攘夷を実施しようとしたと幕府に言いたかったのだろう。
幕府は松陰とその師である佐久間象山に死罪を申付けようとしたが、時の老中阿部正弘が反対して、長州藩への差し戻しとなり長州藩の野山獄に幽閉されることになった。

注)幕末の政治家の中で阿部正弘ほど興味深い人物はいない。阿部は阿部の後を継いだ井伊直弼とは異なり人材というものをよく理解しており、異能の才を愛していた。

 松陰は翌年は野山獄から出されて自由の身になったが、その後松下村塾で塾生に教育を始めたことになる。
松陰が萩の片田舎においてなぜ江戸や京都の情報に精通していたかというと、弟子たちが京都や江戸に遊学しそこの情報を松陰に書き送っていたからだ。こうした役目を持った藩士を長州藩では飛耳長目と言ったが、その報告書を集めたものが飛耳長目張でこれを松陰は弟子たちに回し読みをさせて情報の共有化を図っている。

注)飛耳長目とは今でいう情報担当武官と言ったところで江戸と京都の情報を定期的に報告する義務があった。

 1858年、幕府は日米修好通商条約をアメリカとの間で締結したが、天皇の許可が得ないままの条約締結に憤慨した松陰は老中間部詮勝の暗殺計画を立て藩に上申したため再び長州藩は松陰を獄につないだ。
この暗殺計画に大老井伊直弼が激怒し松陰を江戸に搬送させた後1859年に斬首している。30歳だった。

注)この時期日米修好通商条約を締結に反対する勢力を井伊直弼は弾圧していたが、京都でその役目を負っていたのが間部詮勝だった。その間部詮勝を松陰は暗殺しようとした。

 この江戸への搬送中に歌った歌が「帰らじと 思いさだめし 旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな」であり、死を覚悟していた様が分かる。
そして斬首される前に門人に残した歌があの幕末に多大の影響を残した「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちるとも 留めおまし 大和魂」である。

 松陰は徹底的に弟子に教え、そして教えたままのことを自ら実践して斬首された。何か大塩平八郎の人生と全く同様な一生をおくったように私には思える。
そうした意味で松陰も陽明学徒だったと言えるのだろう。

注)大塩平八郎の生きざまについては以下参照
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3344.html

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(26.3.8) NHK歴史ヒストリア 「大発見 歌麿の最高傑作 深川の雪」

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 栃木市と言っても私などは栃木県にある田舎町だと思っていたが、江戸時代はここは交通の要衝で例幣使街道の宿場町であり、かつ巴波うずはを利用して桐生や足利の絹織物等を江戸に運ぶ水運の集積地だった。
そのことをしみじみ感じさせたのが今回NHKの歴史ヒストリアが放送した「大発見 歌麿の最高傑作 深川の雪」だった。

 江戸期最高の美人画絵師として知られる喜多川歌麿は生涯に「雪月花図 3部作」という大作を描いているが、これは栃木市の豪商善野家に乞われて描いたものだ。
江戸きっての浮世絵師がなぜ栃木市に出向いて最高傑作を作成したのかと私などは不思議に思うが、当時の江戸は必ずしも浮世絵師にとって居心地の良い場所でなかったらしい。

注)「雪月花図 3部作」はいずれもタテ2m、横3m程度の対策で版画ではなく肉筆で描がかれている。見るとヨーロッパ絵画のような感じの画だ。

 当時と言っても18世紀の最晩年は寛政の改革1789年から1793年)を実行した松平定信の復古調の農本主義の時代に一致する。
朱子学者でもあった松平定信にとっては浮世絵などという華美にして堕落した絵画は我慢ならないものだったらしく、何度も禁止令が出されている。

注)松平定信の寛政の改革は以下参照
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-3d03.html

 歌麿の「雪月花3部作」はそれぞれ制作年限が異なっているが、「品川の月」が1788年ごろ、「吉原の花」が1791年から92年ごろ、そして「深川の雪」が1802年から06年ごろの作品と推定されている。
吉原の花」はまさに松平定信が幕府の実権を握って寛政の改革を実行していた最中に描かれていたし、定信は引退しても幕府政界に強い影響力を持っていたので、歌麿の生涯と定信の生涯はまさに重なっていたと言っていい。
いわば互いにライバル心に燃えていたのだろう。
くそったれの石頭の定信の鼻をあかしてやる!!!というのが歌麿の心境だったようだ。

 3部作のうち「品川の月」「吉原の花」は現在アメリカの美術館が保有し、一方「深川の雪」は日本に存在していたが、昭和23年に一般公開された後その所在が不明になっていた。それが2012年に古美術商の手を経て箱根の岡田美術館が所有することになった。今回修復が終わりこの4月から一般公開されるという。

 歌麿は江戸で浮世絵を書くのが危うくなるたびに栃木に逃れ善野家の庇護のもとに浮世絵を描き続けたが、この3部作はそうした庇護に対する感謝、はっきり言えばパトロンに対する謝礼だったようだ。
特に「吉原の花」は幕府行政に対する痛烈な批判画で華美禁止令のさなかに大奥の女中や将軍家の女性が饗宴している様を描いている。
こんなのを江戸で描いたらやばいですね」と岡田美術館の館長が言っていたが、まず間違いなく手鎖りものだろう。

 手鎖りとは江戸時代の刑罰で、主として言論統制に使用し戯作者や浮世絵師に手錠をして作品を描けないようにした刑罰である。
歌麿がなぜ定信に目の敵にされたかというと、禁止の網の目を常にくぐっては浮世絵を描き続けたからで、たとえば色の使用制限をされると顔だけの絵にして色の制限をモノともしない美人画を描いている。
また美人の名前を画面上に記載することを禁止されると「判じ絵」といって、たとえば私の名前だと「と「」を描いて山崎だと分からせる方法だった。

注)歌麿の版画はモデルの実名が記載されていたのでモデルにされた女性のところに大挙して男が押し寄せトラブルが絶えなかった。こうしたトラブルメーカーの歌麿を定信は特に嫌った。

 幕府が禁令を出すたびにその網の目をかいくぐって評判の美人画を描き続けたのだから、ちょうどインターネット上で政府批判を禁じられた中国のネットユーザーのような心境だったのだろう。
歌麿を逮捕して二度と浮世絵が書けないようにせよ」当局がうごいた。

 1804年、歌麿は秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵を描き、その中で当時の将軍家の饗宴のありさま(町人には倹約を解きながら自分たちは酒席三昧だ)を揶揄したため、とうとう捕縛されて手鎖り50日の実刑を受けてしまった。
その刑の厳しさやその以後の監視にすっかり疲れてしまい、歌麿は1806年50才台の生涯を閉じている。

 私などは歌麿と言えば妖艶な美人画を描いた画家程度にしか思っていなかったか、時の老中松平定信と渡り合った反抗精神の塊のような画家だったということを初めて知った。

なお日本史のブログ記事は以下にまとめて入っております。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

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(26.2.14) 奥州藤原氏はなぜ敗北したか! 経済大国・軍事小国の末路

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(千葉でこれほどの雪が降ることは珍しい)

(これは昨日の「東北はなぜ寂しいのか? 奥州藤原氏の敗北と平泉の衰退」の続きです。昨日の文章を読まれてない方は以下参照)
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-d27a.html

  当時奥州藤原氏はロシア方面とも南宋とも交易ルートを持っていたというから相当手広い経済活動だが、何と言っても北方の蝦夷地とさらに北の現在のロシアとの交易が重要だった。そしてその富は膨大だったという。

注)狩猟民族(当時東北は半狩猟、半農業)は稲作民族に比較して進取の気風が強く、外国貿易を積極的に行った

 一方頼朝率いる鎌倉武士団は関東平野の痩せた土地に群生する農民兼武士で農業以外の生産方法を知らなかったから貧しく、東北の富が垂涎の的だったという。
何とかしてあの土地の富が手に入れられたら俺の政権の基盤は強固なものになる
頼朝は機会さえあれば奥州を鎌倉武士団の手で奪おうとしていたが、その絶好の機会が訪れた。
平家を滅ぼした後用済みになった義経を奥州藤原氏の秀衡ひでひら)がかくまったからだ。
頼朝は後白河法皇を脅しあげて義経追討の院宣を出させていたが、今度は奥州藤原氏に対する院宣を出さすことに成功した。
義経の首を差し出せ。さもないと奥州藤原氏を成敗する

注)頼朝が奥州に執着したのは、かつて後三年の役(1087年)では源義家が奥州藤原氏と組んで清原氏を打ち破ったのだが、その戦後処理で手柄はすべて奥州藤原氏のものになってしまった(朝廷は源氏が大きくなるのを嫌った)。
だから源頼朝とすれば「あの時源氏の土地になったはずだ」との思いは強かった。


 平氏滅亡後の政治情勢はちょうど中国の三国志のような状況と思うとイメージがわく。
京都には権威はあるが権力も金もない後白河法皇率いる公家勢力があり、鎌倉には金も権威もないが権力はある頼朝率いる鎌倉武士団がおり、そして東北には権威も権力もないが財力が豊かな奥州藤原氏が存在していた。

注)金持ちだが防衛力が弱いと世界から食い物にされるのは戦後の日本の歴史がしめしており、当然奥州藤原氏は鎌倉から狙われる立場にあった。

 この情勢下で後白河法皇は強大な鎌倉武士団を分裂させるための策略として、源義経に官位と褒賞を与えて取り込みを図った。
義経は軍事以外のことには全く素人だから易々と後白河法皇に取り込まれてしまったため、頼朝は怒って義経追討の院宣を後白河法皇に強引に出させた。

 そこで後白河法皇は義経追討の院宣を出す一方、義経を奥州藤原氏に逃して奥州藤原氏と手を組ましめ、鎌倉と奥州を鼎立させ、京都の権威を守ろうとしたという
だが実際は京都と奥州の連携は容易でなかった。
当時は通信事情が極端に悪く江戸期でも京都・平泉間は(徒歩で)1か月程度かかったから、このころはこの倍程度の時間がかかったとみてよさそうだ。
往復で4か月で、もたもたして返事を伸ばしていたら半年はかかる。これでは提携など夢のまた夢だ。

 こうした時は明確な意志のもとに行動する方が勝だ。結局頼朝が勝利したのは武家政権を確立するという明確なビジョンを持っていたからで、一方奥州藤原氏は一族の存続は考えていたが、それ以上のビジョンはなかったため防戦一方に押しやられた。

 当主秀衡は義経を軍事総司令官にして鎌倉と戦う決心をしたが病死してしまい、秀衡の後を引き継いだ泰衡は1年間の逡巡ののち義経を殺害したのに、頼朝はすぐさま奥州追討に乗り出した。
後白河法皇は「停戦せよ」と命じたが、頼朝は無視した。
奥州はもともと源氏の土地で奥州藤原氏は源氏の配下だから棟梁が部下を成敗しているのだというのがその論理だったが、相当強引だ。

 私には奥州藤原氏の滅亡が、豊かだが防衛力が劣った国は軍事大国に滅ぼされるという典型的な例に見える。
泰衡はただ恭順の姿勢さえ取れば軍事大国の魔手から逃れられると判断したが、侵略の意図のある軍事大国はどんな理由をつけても侵略の手は緩めない。
現在の中国が日本を含めた周辺地域の支配を狙っているとき、泰衡のわだちを踏まないことが最も重要な教訓だろう。

(別件)ちはら台マラソンのご案内

3月15日(土)に第1回市原ちはら台マラソンが行われます。
   種目は10km、5km、2km、1kmです。
   コースはすべて公道を使用して、白バイの先導もあります。

コースは以下のとおりです。

(10km)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=561210b401f2b16a5c8bdc88ecb
b0880

(5km)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=52a9cd953c0833d66bc02ab0c21
cf318


runnetの参加申し込み締め切りは 2月17日までです


 




 

 

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(26.2.13) 東北はなぜ寂しいのか? 奥州藤原氏の敗北と平泉の衰退

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(雪の四季の道を走っていたランナー)

(お知らせ)
2月16日に予定されていた四季の道駅伝は積雪が深く中止することになりました。昨日(13日)NAS近辺の遊歩道300m程度の雪かきをしたのですが、溶雪していない場所の雪かきはかなり苦労しました。準備を懸命に行ってきたのでとても残念ですが、子供の怪我等を考慮した決定ですのでご了承ください。



(ここからが本文)

 私がどうしても理解できなかったことは「どうして北はさみしいのか?ということだった。
北と言う言葉は何かそうした物悲しさを漂わせる言葉だ。それを端的にあらしているのが演歌で、石川さゆりさんの代表曲「津軽海峡冬景色」では恋に破れた女性が青函連絡船にの乗って「さよなら あなた 私はかえります。ああ津軽海峡冬景色」と絶叫し、さらに東北よりさらに北の北海道については山川豊さんが「函館本線」で「さよなら あなた 北へ北へ 北へかえります。心の糸が消えたまま 男と女は暮らせない・・・」と歌っている。
演歌では恋に破れた女性は北に帰ることが定番で決して南には帰らない。どうしてなのだろうか??

注)正確にいうと「京都から博多まで」という演歌もあるが圧倒的に少ない。

 私は長い間、東北は寂しい場所でさらに北海道は江戸時代まで日本の領土とは明確にされていない場所だったから、さらに寂しかったからだろうと思っていた。
はっきり言えば辺境地帯で人も物もすくなく今も昔もそうだったと思っていた。
しかしこの考えはかなりおかしいことに気付いた。かつての辺境が今は繁栄のただなかにあることはいくらでも例があるからだ。

 たとえばイギリスは16世紀ごろまではヨーロッパの田舎だったが19世紀にはパックス・ブリタニカとして世界に君臨していた。19世紀アメリカはイギリスから見たらど田舎だったが20世紀はパックス・アメリカーナの時代なっていた。
そのアメリカの西部は19世紀をとおしてインディアンの住む荒野だったが、今はアメリカのIT産業やアミューズメントパークのメッカになっている。
だから辺境がその後世界の中心に変わることはいくらでもある。

 しかしなぜ東北は大和政権の昔から現在に至るまで辺境の地位にとどまっているのだろうか。その答えは奥州藤原氏の敗北とその都であった平泉を奥州の都として残せなかったからだと気が付いた。
最もそう気が付いたのはNHKのBSプレミアムで奥州藤原氏の「英雄たちの選択 頼朝か義経か 北方の王者の挑戦」をみたからだ。

 奥州藤原氏とは12世紀の約90年間平泉を拠点に奥州に君臨した独立政権だが、源頼朝の政治力と軍事力によって1189年に滅亡させられた。
それもかなりあくどいやり方で滅ぼされており、以来東北には独立した政権が存在しない。
当時の奥州は意外にも都人からも鎌倉政権からもは非常に豊な土地と思われていたが、その経済力の源泉は金の独占的採掘と北方貿易による交易収入だったという。

 この時代奥州は狩猟・採集・漁労と稲作がまだら模様に点在していた地域で、縄文時代が半分弥生時代が半分という土地柄だった。
したがって富は農業というその後の日本の基幹産業ではなく鉱山業や貿易業から成り立っていた。
近代的な感度でいえば重商主義であり、鎌倉政権が農業生産だけの農本主義政権だったのに比較すればはるかに進んでいたと言える。

 しかし実際は奥州藤原氏は28万の関東武士団に攻められ、あえなく当主の泰衡やすひら)は敗走したがその途中で部下に裏切られて殺害されている。
当時奥州藤原氏には17万人の軍隊があったと言われており、また福島県の交通の要所に阿津賀志山あつかしやま)防塁(馬で越せられない)を約3kmにわたって築いて応戦したのに実にあっけない敗北だ。

注)私が日本史を見ていつも驚くのは最終的に勝利するのが常に農業政権であることだ。鎌倉幕府は平氏と奥州藤原氏を滅ぼしたが、平氏も藤原氏も交易を重視する重商主義政権だった。
また江戸幕府も典型的な農業政権だが、滅ぼされた豊臣政権は交易を重視していた。
また現在でも農業団体の力は実に強大でTPP一つとっても政府はまともに決めることができない。なぜ日本は農業集団がこれほど強大なのだろうか。不思議でならない。


 番組の説明では鎌倉武士団が平家との5年にわたる激闘でいわゆるベテランぞろいの戦士だったのに比べて、奥州藤原氏の軍勢はまったく戦争の知らない新兵ぞろいだったことがあげられるが、それなら当代一と言われた義経を総大将にしてなぜ戦わなかったのか非常に疑問だ。
頼朝の要請形式的には後白河法皇の院宣)で「義経の首を指しださなければ奥州藤原氏を打ち取る」と脅されていた関係はあるが、義経の首を差し出しても頼朝は奥州に攻めてくることを見抜けなかったのはやはり泰衡は甘かったのだと思う。

注)泰衡は1年余り逡巡した後、頼朝軍28万の勢力を恐れて義経を殺害しその首を頼朝に届けた。


 そして何より不思議なのは当時東北随一の都市と言われた平泉がその後中尊寺を残して跡形もなく消えてしまったことだ。鎌倉や京都に匹敵する大都市が単なる農村地帯になってしまうことがあるのだろうか。
せめて平泉がその後の歴史においても都市として機能していれば、東北がこれほどさみしさを漂わせる場所にはならなかったのだと思う。
しかし実際は芭蕉が歌う「夏草や 兵どもが 夢の後」という状況になってしまっており、歴史が断絶している。

 この時泰衡が義経を総大将にしてゲリラ戦で頑張れば、冬に弱い鎌倉武士団はナポレオンの退却を余儀なくされたと思われる(なお頼朝が攻めあがったのは7月)。
そして平泉が東北王国の都市として存続すれば、東北が鎌倉武士団の植民地になることはなく、精神的に追い込まれることはなかっただろう。
やはり頑張り切れなかった泰衡の敗北がその後の東北人のメンタリティーを決定づけたと言えそうだ。

 その後東北は鎌倉武士団や江戸武士団の植民地の扱いを受け、現在に至るも東京の支配を受けている。

注)京都や大阪が東京に対抗できるのは過去に政治経済の中心があったからで、そうした歴史も遺跡もない場所は精神的にさみしい場所と言える

なお東北関連の記事としてアテルイの敗北があるがそれは以下参照
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d27a.html

(別件)ちはら台マラソンのご案内

3月15日(土)に第1回市原ちはら台マラソンが行われます。
   種目は10km、5km、2km、1kmです。
   コースはすべて公道を使用して、白バイの先導もあります。

コースは以下のとおりです。

(10km)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=561210b401f2b16a5c8bdc88ecb
b0880

(5km)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=52a9cd953c0833d66bc02ab0c21
cf318


runnetの参加申し込み締め切りは 2月17日までです



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