個人生活 文学入門

(28.2.19) 文学入門 湊かなえ 「母性」 今回も読むのに苦労した!!

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  いやはや今回は完全にアウトだ。定例の読書会のテーマ本母性」のことである。
この小説は湊かなえさんという方が作者なのだが、いつものようにこの作者も「母性」という本も全く知らなかった。
おそらく読書会のテーマ本にならなければ一生読むことのなかった種類の本だ。

 湊さんはミステリー作家といわれており、いろいろな賞を獲得していたが私はミステリー小説に全く興味を示さないので私が知らないのは当然といえる。
また最近はそれでなくても視力が衰えて小さな文字を長時間見ていると頭の芯がずきずきしてくるので、パソコンのように文字を拡大できる画面以外は見たくもない。

 それでもテーマ本なので無理をして読み始めたが、なかなか話の内容が進まないことにイライラしてしまった。途中から1ページ当たり数行だけ読むように変えてみたが、それでも話の内容は分かるので記載されていることの7割から8割は無駄で、なくても全く支障がないことに気が付いた。
やれやれこんなに飛ばし読みをしても問題ない小説は珍しいな・・・・・・冗長すぎる・・・

 私が学生時代に好んで読んでいた高橋和己の「邪宗門」などは、一行一句も飛ばすことができないくらいの濃縮性を持っていたし、伊藤整「若い詩人の肖像」などは書かれた内容をそらんじることができるほど読み込んだものだ。
一方この「母性」については1ページ当たり数行読むだけで何ら問題ない。
これは時間の無駄じゃなかろうか・・・・・・・・・」目が痛むこともあってさらにイライラしてしまった。

 小説の内容を記してもほとんど意味がない。主人公のマザコンの母親の告白と、高校生で自殺した娘とが交互に過去を話すという構成だが、特に登場する人物に魅力があるわけでなく話の筋も遅々として進まないから読んでいて飽きてしまう。
それに本音を言えば湊さんだけでなく最近の作者の小説に は一切魅力を感じることができない。

  半年に一回の割合で芥川賞直木賞の発表があるが、かつて文芸春秋を購入して読んでいたころが懐かしい。今では読んでも「今回も時間の無駄だった」と思えることばかりだ。
小説を含む芸術作品に はその芸術のピークがあり、たとえばルネッサンス絵画であればダビンチミケランジェロを見れば十分だし、印象派絵画であればマネモネルノアールを見ればいい。近代の抽象絵画であればピカソを見れば他の作者を見ても仕方がないほどだ。
確実に言えるのはそれ以降の亜流絵画をみても何ら得ることはない。
小説もまったく同じで、私は30歳ごろまでに当時評判だったほとんどの小説を読んでしまったが、当時読んだ高橋和己や井上靖や司馬遼太郎や伊藤整を凌駕する作者をその後発見していない。

 「もう小説を読むのはよそう・・・・・」そう本音では思っているが読書会のメンバーになっているので、せめてテーマ本だけは読もうとしてとてつもない試練に立ち向かっている。
この本で湊さんが取り上げた「母性」について何か新たな発見が得られたらと思ったが、実際は何も新しい知見はなく、主人公のマザコンに辟易しただけだった。

 

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(27.10.23) 文学入門 塩野七生 「ハンニバル戦記 上」

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 今回の読書会のテーマ本は塩野七生ななみ)氏の「ローマ人の物語」のうちの「ハンニバル戦記 上」である。
この本を選択したのは私で、塩野氏の「ローマ人の物語」は私の愛読書の一つだ。
全15巻からなってこのハンニバル戦記はその2巻目で、大部なので文庫本では、上・中・下に分かれている。

  塩野氏は小説家だが同時に歴史家のような人で、古代ローマに関してこの人の右に出る人はいない。ちょうど司馬遼太郎氏のような人で私は幕末から明治にかけての歴史を司馬氏から学んだが、古代ローマ史はもっぱら塩野氏から学んでいる。
文章は小説家だけあって人に読ませる能力が高くとても楽しく読める。ただし大部だから全部読むには相当の忍耐力がいる。

 ローマとカルタゴは約120年間の間に3回戦闘をまみえたが、1回目は紀元前3世紀のことだから日本では弥生式文化が花開いていたころだ。
ローマはこのカルタゴとの死闘の結果勝利し、地中海の覇者になったのだが、もし敗れていたらカルタゴが地中海の覇者になっていたはずだ。

 この第1回目の戦闘はシチリアの領有を巡って発生した。当時ここは西半分がカルタゴの植民地で東に独立都市国家のシラクサがあり、北にメッシーナという都市国家があった。
このメッシーナカルタゴシラクサの連合軍に攻められ、メッシーナがローマに救援を求めたことから戦闘が始まった。
対岸のイタリア本土の都市国家はすでにローマの軍門に下っていたから、メッシーナもカルタゴやシラクサの植民地になるより、自治権を大幅に認めてくれるローマに救援を仰いだわけだ。

 ローマはこの援軍要請に応じて約4万の軍団を派遣したが、当初はカルタゴと全面戦争をするつもりはなくカルタゴやシラクサが兵を引けばそこで休戦するつもりだった。
当時のローマは陸軍中心で海軍はなきに等しかったから海洋国家のカルタゴと海戦をするつもりはなく、まして海を渡ってアフリカまで攻め込む意志は皆無だった。

 それが全面戦争になったのは慌てたカルタゴがやはり4万もの兵をシチリアにくりだしてきたからだ。
当時カルタゴはアフリカの北の沿岸部をおさえ、地中海を自国の海としていた海洋国家だったので、海戦に持ち込めば農民兵のローマを簡単に駆逐できると考えたらしい。
海の藻屑にしてやる

 しかし信じられないことに海戦はことごとくローマが勝利している。確かにカルタゴの船の方が迅速に動いたり操舵も巧みだったが、カルタゴは商業国家ではっきり言えば軍隊の整備がなおざりだった。
戦争が発生すれば傭兵を雇って戦場に繰り出させるのだが、一方のローマは重装歩兵を中心とする農民兵でローマ市民から構成されていた。

 しかもこの農民兵は周囲の蛮族との戦闘を常時していたから戦争はことのほかうまい。海戦においても船のぶつけ合いではなく、カラスと称した一種の梯子を発明して、その梯子伝いに兵士がカルタゴの艦隊に乗り組んで陸上戦にしてしまった。よく映画で見る船を接岸させて梯子をかけ兵士が乗り込み接近戦をするあれである。
重装歩兵はローマが世界征服を成し遂げることができたローマの屋台骨で、これに攻められて勝利できるような国などない。まして傭兵中心のカルタゴ軍はすぐに戦いを止めて敗走してしまった。

  第一次ポエニ戦争は約20年間にわたって戦われたが、海戦も陸戦もほぼローマの勝利だった。
カルタゴがなぜ軍事力に力を注がなかったかというと、商業国家で侵略より通商を求めていたので、通常は軽武装で必要があれば傭兵を金で雇っていたからだ。
このあたりになると戦後の日本がカルタゴで一方アメリカがローマというようなアナロジーが浮かんできて、なぜ日本はアメリカとの通商交渉や金融交渉で敗北を繰り返えしてきたかというと、本質的には軍事力が脆弱だからではないかと思ってしまう。

 この上巻にはまだ主人公のハンニバルは現れていない。ハンニバルの父親のハミルカムの時代で、ハミルカムはカルタゴ軍を率いてアフリカに上陸したローマ軍を蹴散らしたりしていたが、何しろ海軍がだらしなく戦うとすぐに負けてしまって、結局はカルタゴはローマに和睦をすることになった。

 この結果カルタゴはシチリアから完全に撤退し、西地中海の植民都市サルジニア島も放棄したから、地中海の西海はローマの内海になり、カルタゴは地中海から追い出されてしまった。
そのためハンニバルの父親のハミルカムは子供のハンニバルを連れてカルタゴを去り、スペインに新たに植民都市を築くことにした。
息子よ、この汚名をそそぐために私はカルタゴを去りスペインに都市国家を築く。ここで力をため込み再びローマに戦いを挑むのだ。もし私が死んだらお前がその意志を継

 第二次ポエニ戦争はこのハミルカムの遺言を息子のハンニバルが実行したもので、これはローマとカルタゴとの戦いというよりはローマとカルタゴのスペイン植民地との戦いだった。
まだこの上巻には記載されていないが、なぜハンニバルがアルプス越えをしてローマに攻め込まなければならなかったのかの理由は、西地中海の海はローマ艦隊が制海権を握っていたので、スペインからはフランスの沿岸をとおって陸上伝いにしか軍を進められなかったからである。

 この時期のローマ史はまさにローマが世界のローマになるころの歴史でとても興味深いが、なぜローマがあれほど強かったのかの秘密はローマ市民がみな自ら甲冑を着こむ国民皆兵制度だったからだと思う。
その中の重装歩兵は当時の最強武装集団で、一方カルタゴは傭兵中心の軍隊だったから負け戦になるとさっさと逃げ出してしまうのがローマに勝てなかった理由のようだ。

 塩野氏の「ローマ人の物語」を読むと当時のローマ人やカルタゴ人が何かひどく親しい友人のように思えてくるが、これは塩野氏の筆致が優れているからだろう。とても楽しく読める本だ。

 

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(27.9.27) 文学入門 森敦 「月山」 興味深い本だが面白さに欠ける。

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 今回の読書会のテーマ本は森敦氏の「月山」だった。これを選んだのは読書会の主催者の河村さんだが、読んでみて「えらい本を選択してくれたものだ」と思ってしまった。
通常の小説のような筋書きがあるわけでもなく、また人間相互の激しい葛藤があるわけでもなく、何か淡々と月山と作者が暮らした村落の話がつづられている。
どちらかといえば民俗学の報告書のような話だからだ。

 第一私は「月山」という山がどこにあるのかもしらなかった。地図で調べると山形県のほぼ中央あたりにある山で、羽越本線鶴岡の駅から赤川という川をさかのぼっていくとあることをようやく知った。
しかしこのあたりの地理については私は全く不案内のため主人公が目指した大網の注連寺といわれても、全くイメージングができない。
この小説は「月山」と森氏が過ごしたこの注連寺やその近在の部落の報告なのだから、地理的イメージがないと何とも理解不可能なのだ。

 注連寺といっても住職がいるわけでなく老人が一人でこの寺を守っており、かつては相応の構えだったのが雪崩等で崩壊の危機にあり、森氏はその2階で隙間風におびえながら一冬を過ごすことになる。
ただし注連寺が崩壊寸前の寺というのは小説の虚構かもしれない。写真など見ると相応の立派な構えをしている)

 非常に山深い場所で冬はバスも通わないので街に出るには山越えをしなければならないと説明があるので、私は長野県の上高地をイメージしてしまった。
かつて道路が整備されていなかった頃は上高地に入るのには徳本峠を越えていかなければならなかったからだ。

、森氏の報告によればこの集落の生業は密造酒作りで成り立っていて、もちろん摘発されれば罰金物なので、特によそ者に対して警戒心が強い。
もしかしたら税務署か警察の回し者でないか?」と疑うからだ。
森氏も当初そう疑われて村人からうさんくさげに見られるが、単なる世捨て人と分かってからは仲間の一人として迎えてもらえる。

 森氏はここに昭和26年の夏から翌年の春先までとどまっていたが、その時のルポルタージュだと思えばいい。いまから60年前の日本の古い山村の原風景だ。
この時の経験を素材に森氏は「月山」を書いたのだが、この作品は1973年(昭和48年)年度の芥川賞を受賞している。その時森氏の年齢が62歳だったのでマスコミを騒がした。
私は当時サラリーマンのなりたてのころだったが、芥川賞に62歳の老人が選ばれたことにひどく驚いた。
へー、こんな老人でも小説が書けるんだ!!」
今私は69歳でこうして平気でブログを書いているから今なら驚かないが、当時は芥川賞の受賞者は若者と決まっていたからだ。

 もっとも正確に言えば森氏は新人作家ではなかった。昭和9年というから芥川賞を受賞する40年近く前に東京日日新聞に連載小説を掲載するほどの実力作家だった。
その森氏がなぜ40年の沈黙を挟んで再び脚光を浴びたのかというと、森氏には放浪癖があり新聞小説などを生真面目に連載するよりは漂泊の旅に出ていってしまったからだ。
この人の放浪癖は生涯収まらず、ここ山形県の注連寺に一時寄宿したのもその放浪癖の一種である。

 小説の内容を説明するのは非常に難しい。特に内容などなく自然と部落の住民の観察だといってしまった方がいいくらいだ。
民俗学の報告書のようだと私が思ったのはそのせいで、あえて類似を求めれば鴨長明の「方丈記」に似ている。
森氏は長明と同じようにこの寺の二階で方丈の庵を古紙を使って作りその冬を過ごしたことになっている。

 興味深い本だが普通の人が読むには面白さには欠ける。血沸き肉躍るというものからもっとも遠い小説であり、何か淡々と事実が述べられているから学術研究、特に民俗学の資料といった方がよさそうだ。
私は読んでいて疲れ切ってしまったが、古い日本の山村がどのようなものだったかに興味を持っておられる方には研究対象になるのではなかろうか。

 

 

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(27.7.26) 文学入門 中條高徳 「おじいちゃん 戦争のことを 教えて」

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 今回の読書会のテーマ本は中條高徳氏の「おじいちゃん 戦争のことを 教えて」という本だった。私は不覚にも中條高徳氏のことをわすれていたが、アサヒビールスーパードライ育ての親だと聞いて思い出した。
私が大阪で融資担当をしていたのは1980年前後のことだが、そのころはビールといえばキリンで、どこの居酒屋に行っても「キリンを出してくれ」と頼むのが一般的だった。
私は酒はほとんど飲まないからキリンだろうがアサヒだろうがサントリーだろうがなんでもかまわないのだが、顧客を招待した場合などは間違ってもアサヒを頼んではいけないといわれたものだ。

 その朝日ビールがスーパードライで劇的な復活を遂げたのが1980年代の後半で、コマーシャルで「アサヒスーパードライ」という何かドスの利いた宣伝の言葉を連日聞くようになり、そのころからアサヒが復活しキリンの凋落が始まった。その仕掛け人が中條高徳氏で、私はこの人をアサヒビールの有能な経営者だと思っていた。

 しかし中條氏は有能な経営者である前に帝国陸軍の生粋の軍人であり、かつ戦後日本の左派の思想的潮流を嘆いていた保守派の論客だったとはこの本を読むまで知らなかった。
この本はニューヨークの学校に通う孫娘の質問状に対して答えるおじいちゃんの手紙になっており、難しい言葉は一切使用していないから理解しやすい。
私の読んでいる小学館文庫は2002年が初版だからこのころにかかれたものだ。
日本が停滞の10年を経過したころの本である。

 読むまでは題名から左翼論壇よくある「戦争反対、日本人は世界で最も残酷な人間だ」というような内容だとかってに思っていたが、その対極にある内容だった。
基本的スタンスは「太平洋戦争を勝者の論理で歴史を記述しているだけではだめで、日本の立場から歴史を記述し、日本民族の誇りと公の精神を取り戻さなければ明日の日本はない」という危機感で記載されていた。
勝者にも敗者にも相応の歴史があり、歴史とは価値中立だという主張である。
だから日本人が東京裁判史観をそのまま素直に認めている現状を激しく非難している。

 歴史を見る場合歴史が価値中立的なものか、それとも勝者の歴史なのかはかなり議論がある。
かつてE・H・カーの「歴史とは何か」という本を読んだとき「歴史とは未来と現代と過去との対話であって、現代の視点から過去を断罪するものでもないし、過去の事実のみを語るだけのものでもない。人類の未来にとって何がよいのかといふことを常に意識したものでなければならない」と記載されていたが、これは歴史そのものは価値中立的なものだといっているのであり、中條高徳氏の主張に近い。

 だが、実際の歴史は東京裁判史観がそうであるように勝者の歴史である。日本の歴史教科書は日本がアメリカに敗戦し、その結果アメリカが日本に押し付けた東京裁判史観そのもので、太平洋戦争の責任も原爆投下がされたこともすべて日本に責任があることになっている。
また第二次世界大戦の極悪人はヒットラーとなっているが、それはヒットラーが戦争に負けたからで、もしロシアを打ち破っていれば間違いなく極悪人はスターリンになっていただろう。
何しろスターリンが粛清した人数は半端ではなく、旧地主階級、旧ロマノフ王朝関連者、反対勢力等合わせて最低でも2000万は殺害している。ヒットラーの比ではないのだ。

 歴史が勝者のものだというのが最もはっきりしているのが中国の歴史で、歴史書は次の王朝が記載することになっているが、ここにはなぜ前王朝が滅び、今の王朝ができたのかを記載する場となっている。
極悪非道で酒池肉林にふけっていた前王朝は、わが始祖である○○に打ち破られた
中国では歴史が勝者のものであることを明確に示している。

 だが実際の歴史は当初は勝者のものであっても、時代が経つにしたがって価値中立的なものへと変化していくものだ。
時間が絶てば互いに冷静になるし、歴史の記述は理性的になり論理的整合性が求められれば一方だけが悪人だというような記述が少なくなってくる。
そして太平洋戦争の評価でも、アメリカが意図的に戦争をしかけた経緯も明らかになってくる。

 だがこと中国と韓国についてはこの原則が当てはまらない。
時代が経てばたつほど勝者の歴史が強調され、韓国などは第二次世界大戦時は日本人だったのだから日本人として敗北したのだが、すっかり勝者側にたった歴史記述になっている。
言論の自由が抑圧されている中国や、すべてが感情で支配されている韓国では、相も変わらず自己中心の勝利者の歴史が語られさらに強化されている。

 中條高徳氏の提言で特質に値するのは歴史教育は近現代史からはじめ、特に江戸時代から始めるべきだという提言である。
実際縄文時代や弥生時代をいくら勉強しても現在とは直接的なつながりはない。
平安時代の貴族の生活や鎌倉時代の武士の生活もまた現代から遠い存在だ。
やはり中学生や高校生は江戸期以降の歴史を集中して学ぶべきであって、特に明治維新後の近代化や帝国主義時代の日本のあり方、そしてなぜ日本が太平洋戦争に敗れたかは必須の歴史だ。
さらに戦後日本の安保闘争の意義についても正しい知識が必要で、特にソビエトロシアがなぜ崩壊し社会主義というものが歴史的に失敗した経緯は克明に教えなければならない。
 
 歴史とはE・H・カーが言うように「過去との対話」であり、現在にとって対話する相手は縄文時代や弥生時代でないことは明らかだ。
なぜ現在の日本が存在するかの対話は近現代史を研究することで初めて明らかになるのだから、積極的に太平洋戦争の敗北とその後の世界情勢について教えるべきだと私は思う。



 

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(27.6.18) 文学入門 井上靖 「北の海」

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 今回の読書会の担当は私だった。テーマ本に井上靖氏の「北の海」を選んだのはこの小説が特に好きだったからだ。私は今小説はこの読書会のテーマ本しか読まないが、大学生だった時から30歳ごろまでは実に熱心な小説ファンだった。
そのころ井上靖氏高橋和巳氏司馬遼太郎氏のほとんどの小説と評論を読了している。

 私がその後小説を読まなくなったのはこの3名を越えるような小説に出会わなくなったからで日本の小説のピークはこの20世紀の後半にあったと私は思っている。
芸術というものは科学と異なりそのジャンルのピークというものがあり、たとえば俳諧では松尾芭蕉を越えることができず、和歌ならば平安時代の和歌を越えるものはない。

 井上靖氏の小説の中でこの「北の海」は自伝的小説といわれ、この流れの中には「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬涛」がある。いづれも私の愛読書で戦前の小学生や中学生や高校生の生活が生き生きと描かれていてとても楽しんで読める。
私が子供のころは左翼史観全盛のころで、戦前は暗黒時代であり特高警察が常に目を光らせ、自由の全くない窮屈極まりない社会だと教えられていたのだが、この井上靖氏の小説を読むことで必ずしもそうした社会でなかったことを知った。

 確かに左翼陣営にとってはとても耐えられないような社会だったかもしれないが、多くの国民は左翼とは無縁だったし、まして井上靖氏の住んでいた伊豆湯ヶ島の子供にとっては「それはどこの国の話ですか」というような状態だった。
だから井上靖氏の小説には思想的側面がほとんど皆無だがそれは驚くに当たらない。

注)20世紀をかけて行った左翼の実験はソビエト・ロシアの崩壊で失敗が明らかになった。左翼史観によれば小説は政治のしもべということになるが、左翼そのものが誤っていたのだから、小説に思想性がなくても何ら問題はない。

 私が井上氏の自伝的小説が好きなのは自身が社会的エリートではなく、そのエリートの周辺にいる人物であることを自覚しているからだ。「北の海」でも高校受験に何回も失敗したまま第4高等学校(現在の金沢大学)の柔道部の練習に浪人生のまま参加して、すっかり柔道部員の一員になりきっている。準エリートとしての生きざまを模索した人だ。
この第4高等学校柔道部というのが特異な柔道部で、高専柔道大会で優勝することだけを目的にした柔道一筋集団と言っていい。

 今の人には高専柔道といっても何のことかわからないが、戦前は講道館柔道などは全く寄せ付けないほどの人気の柔道で、高等学校と専門学校の日本一を決める大会が開催されていた。
その柔道は講道館柔道のたち技中心の華麗な柔道とは異なり、もっぱら寝技中心で必殺技は首を絞めて相手を気絶させることだった。
柔道用語で「落とす」というのだが、本来の目的は相手を必殺技で殺すことで、スポーツとしての柔道ではなく、実践的な格闘技だったといえる。
戦後はそうした野蛮な高専柔道はGHQの指令もありすたれてしまったが、この小説を読むと当時の柔道が実際は格闘技だったことが分かる。

 井上靖氏自身はその後第4高等学校で実際に柔道を行い、もっとはっきり言えば柔道以外はしなかったが、大学は九州大学文学部に入学し、その後京都大学哲学科に編入している。
柔道だけして勉強もせずによく大学にはいれたものだと現在の感覚からは思うが、戦前は高等学校に入るのが極端に難しく、高等学校に入ってしまえば高等学校と大学の入学定員はほぼイーブンだったので、高望みさえしなければどこかの大学にはかならず入れた。

 この小説はハチャメチャでバンカラで、なんとも愉快な青春であり、戦前のおおらかな学生生活が彷彿してくるので読んでて楽しい。
戦前が暗黒時代時代だったというのは左翼の偏見で、左翼そのものがすでにダイナソーなのだから、そうした偏見なしにこの時代を見ると戦前日本のおおらかな姿が浮かんでくる。

 なお、あらすじについては多くの方が書いているが、立宮翔太さんの「文学どうでしょう」にあらすじが掲載されていたので一部抜粋して転載する。

「井上靖の自伝的三部作(『しろばんば』『夏草冬涛』『北の海』)の最終作にあたります。中学を卒業した洪作の浪人時代の物語です。

前作から数年が経った大正15年(1926年)の3月、洪作は5年間の中学生活を無事に終えましたが、4年生終了時と卒業間近の時と、静岡高校を受験したものの、2回とも落ちてしまったのでした。

とりあえずそのまま浪人生活に入ったものの、目指す学校も決まらず、勉強にも熱が入らず、中学の後輩らに混じって好きな柔道の練習を続けています。このまま残るか、家族が暮らす台湾に行くか――。

まさに人生の岐路に立たされる物語で、学校の進路や就職など、どの道に進むべきか悩んだことのある人すべての心を打つ青春小説です。

一応「三部作」ですし、幼少時代、中学時代、浪人時代と話は繋がっているので、勿論続けて読むのが一番よいですが、作品ごとに少し時間が経って周りの環境が変わり、登場人物の多くも変わっています。

なので、あまり順番は気にしなくていいですし、この『北の海』から読み始めても全く問題なく楽しめます。実際、洪作というこの「三部作」の主人公像は、この作品でかなり大きく変わっているんですね。

以前は、繊細さがあった洪作ですが、この作品では進路への不安など毛頭見せず、ひょうひょうとしていて、周りの人々を心配させます。とんぼと同じで何も考えずにすいすい飛んでいると評されたほど。

夏になると、四高(第四高等学校。金沢大学の前身)の柔道部から見学に来ないかと誘われて、洪作は金沢に出かけて行きました。

前作『
夏草冬涛で、文学青年のグループに輝きを感じたように、今度は一心不乱に柔道に打ち込む四高の人々から、洪作は大きな刺激を受けるのです。タイトルは、この金沢での経験に由来しています。

四高の生徒である鳶と杉戸、四高の柔道部目指して受験を続けるも3年連続で失敗している浪人生の大天井と一緒に、内灘に日本海を見に行くんですね。音痴ながら杉戸が一生懸命に四高の寮歌を歌います」

 

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(27.4.25) 文学入門 古井由吉 「杳子(ようこ)」 読むのが骨の折れる小説だ

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 私は読書会のテーマ本はどんなことをしても読むことにしているが、それにしても今回の古井由吉氏の「杳子(ようこ)」には悲鳴を上げた。私の最も苦手とする小説だったからだ。
筋の流れはほとんどなくひたすら精神の内面の記述が続いている。外界と遮断した心模様の小説だ。

 この小説は1971年芥川賞を得た小説だったが、いつものように私は古井由吉氏も「杳子」という作品も全く知らなかった。
読書会のテーマ本でなければ一生読むことがなかったはずだが、世の中にはこうした小説もあるのかとびっくりしてしまった。

 話の筋はほとんどない。大学生の主人公が山を下りてきてたまたま河原で動けなくなった同じく大学生の杳子という女性にあい、駅まで送っていくのが一つ。次にたまたま駅で再開してその後喫茶店や公園で会うのがもう一つ。肉体関係を持ってからは杳子が下宿している姉夫婦の家に主人公が出かけて行くのが一つ。ただそれだけの筋で状況そのものは全く小説にとってどうでもいいことだ。

 話される内容は精神を病んでいると称する杳子が見る外界の描写で一種の心象表現なのだがそれがとめどもなく繰り返される。どこのページを見ても同じ心象表現の羅列なので、この小説は最初も終わりも同じで、どこか一か所読めばそれがすべてという内容だ。
もっともそう表現しても何のことか分からないだろうから例を示めそう。

 「谷底って、高さの感じが集まるところでないかしら。高さの感じがひとつひとつの岩の中までこもっていて、入ってくる人間に敵意を持っているみたいな・・・・・・」
谷底の気味の悪さを端的に言い表されて、彼は相手の顔を見つめなおした。すると女は顔を赤くして「よくわからない」と鼻にかかった声で言った。
そして躰を伸ばして椅子の背にもたれかかり、珍しいところに連れてこられた子供みたいに、薄暗い店のあちこちを見まわし始めた。遠くから近くに視線を移すたびに、彼女の目はいったん彼の前にもどってきて、観察する彼の目を段々に見つめ返し、遠くから近づいてくるようにぼんやり微笑んだ。
横顔が彼の方に向きかえるたびに、彼は岩の上に座っていた女の横顔を思い浮かべたが、思い浮かべきらぬうちに、女の顔はもう彼にまともに向かい合って親しげに笑いかけている。


 こうした長々とした意味のない表現が最後まで続いているので私はすっかり読むのに疲れてしまった。
「なぜこんなへんてこな心にだけ向き合う小説がかかれたのだろうか
この小説がかかれたのは1970年のことだが、全共闘運動真っ盛りのころで丁度私の学生時代に重なる。

 この時代は社会の覚醒の時代で口を開けば変革が叫ばれており、読まれる書物も羽仁五郎氏の「都市の論理」のような恐ろしいまでのアジテーションの効いた書物ばかりだった。
精神の内面などはほとんど価値がないとされた時代である。
一方で日本の小説の伝統は私小説にあったから文壇の主流派としては「小説は政治のしもべ」などとする左派の声高な主張を苦々しく思っていたはずだ。
当時小説家は「おまえわー、小説をー 私物化しー 社会からー 隔絶したものとみなすうー プチブル根性のー 卑しい人間でー 総括しろー」なんて言われていた。
そこに古井由吉氏の社会情勢など一切無視した内面オンリーの小説が出てきたので、芥川賞の選考委員は飛び上るほどうれしくなってこの小説に芥川賞を授与したのだろう。

 しかし今から読むと内面オンリーの社会とは隔絶した人物の話など読んでも全く興味がわかない。社会化だけされて内面のない人物を描いた小林多喜二氏の小説もつまらないが、両極端はやはり無理なのだ。
私は普段小説を読むことを全くしないが読むとその小説が書かれたときの時代精神をどうしても思い出してしまう。何か古い昔に咲いたあだ花のような小説だ。

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(27.3.21) 文学入門 高橋治 「風の盆恋歌」

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 越中八尾と言われてもどこにあるのかさっぱり分からなかった。地図で調べてみると、富山市から約10km程度山間に入った井田川が中央を流れている街で高山本線が通っていた。
今回の読書会のテーマ本は越中八尾を舞台にした高橋治氏の「風の盆恋歌」だった。
私はこの小説を全く知らなかったが、石川さゆりさんが歌う「風の盆恋歌」はよく知っていた。
私は熱狂的な演歌ファンだからだ。

 風の盆恋歌の一番目の歌詞は次のようになっている。
蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉
若い日の 美しい 私を抱いてほしかった  忍び逢う恋風の盆

私は石川さゆりさんが歌うこの歌はなかなか情感があっていいものだと感心して聞いてきたが、これが高橋治氏の小説「風の盆恋歌」をモチーフにしていたとは全く知らなかった。

 この小説はかつて学生時代に愛し合った男女が30年の歳月を経て越中八尾の風の盆で1年間に3日間だけ再び愛し合う小説である。
作者の高橋氏は旧制四高現在の金沢大学)出身で、金沢や富山の地理を知り抜いており、特に越中八尾の風の盆には何回も通って見物しているようだ。
風の盆の踊りの詳細な説明を読むと、どんなに高橋氏が風の盆を愛しているかわかるが、残念ながら私にはその詳細な説明をイメージすることはできなかった。
また八尾の街並みの名前や場所の説明も何度も記載されるのだがこちらも頭で地図を描くことはできなかった。

 文字だけの小説にはどうしても限界があり、例えば場所の説明なら地図を見せてくれればたちどころに把握できるし、風の盆の細かな踊りのしぐさは写真か挿絵があったらどんなにかわかりやすかっただろうとため息がついた。
言葉でいくら説明しても見たこともない人にはさっぱりなのだ。
だからこの小説は越中八尾を訪れたことがあり風の盆踊りを見たことがある人ならバッチリなのだが、そうでない人には非常な想像力の苦痛を強いる小説といえる。

 この小説は風の盆が行われる年に3日間だけの逢瀬を扱っており、通常の言葉で言えば不倫なのだが情景があまりに美しいためなにかこの世の情景とは思われない。かつて読んだことのある川端康成氏の「雪国」のようだ。
だが正直言って私はもうこの種類の男女の心のゆらめきを扱った小説を好まない。人生長く生きていると「もう十分だよ」という感覚に襲われる。

 旧制四高を扱った小説では井上靖氏の「北の海」のほうがはるかに面白く読める。この小説は四高柔道部に所属していた筆者が寝技柔道というもので高校柔道界のトップに立とうと努力をする自叙伝的小説だ。はっきり言えばバンカラ集団でまったく勉強や知性とは無関係な青春真っ盛りのような登場人物の小説だから読んでいて気持ちがいい。

 一方高橋氏の描く四高の集団は明らかにインテリ集団であり、多くは医者になったり弁護士になったり、大手新聞社の外報部長になったりしている。左翼思想にも共鳴しているものも多く四高のインテリ集団と言っていい。私はインテリよりバンカラが好きだから、どうしても高橋氏の描く世界にはなじめなかった。

 なお小説の筋は「硯水亭歳時記」というブログに非常によくまとまって説明がされていたのでそれを転写しておく。

高橋治著の小説・『風の盆恋歌』は不倫の小説であるが、美しい物語を紡いでいた。オトコは30年前、旧制高校時代の仲間だった女性と、越中・八尾の風の盆で愛し合う。彼は大手新聞社の外報部長で妻は弁護士。一方彼女には外科医の夫と大学生の娘がいる。

 思いを寄せる彼女から遠ざかったのは、仲間と別れた風の盆の夜だった。彼の勤務先であるパリで再会した二人は、誤解が生じた経緯を知り、急速に近づく。彼女はもう一度でいいから、貴方と風の盆に行ってみたいと思う。

 八尾・諏訪町の一軒家で彼女を待つ彼。彼女が京都からやって来たのは4年目の風の盆の宵だった。列車が駅に止まるたびに降りて戻ろうかと思った彼女は、「足もとで揺れる釣り橋を必死で渡ってきたのよ」。ふたりは3日3晩、美しいおわらに酔いしれる。「おれと死ねるか」と聞く彼に、彼女は「こんな命でよろしかったら」と応える。翌年も風の盆で会うが、彼女は娘に不倫をしているのではないかと知られてしまう。 

 3度目の逢瀬になるはずだった風の盆の初日の夜、原因不明の難病に侵された彼は八尾の家で息絶える。駆けつけた彼女は、「夢うつつ」と染め抜いた喪服姿で彼に寄り添い、睡眠薬自殺する。」 

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(26.11.29) 文学入門 赤瀬川原平「老人力」

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 今回の読書会のテーマ本は赤瀬川原平氏の「老人力」だった。私はいつものようにこの作者もこの本もまったく知らなかったがベストセラーになった本だという。

 私は当初「老人にも残された力があり、その残された力を発揮してがんばれ」と言う内容の本だと思って読み始めたが、まったくその正反対の内容だった。
老人力とはぼける力でありそうした人は幸せに生きられる」と言う内容だったが、ただ単に恍惚になればそれが幸せだと言っていないところがユニークな内容だった。

 適度にぼけるのが老人力肩の力を抜いて気楽に生きていくほうが楽しいと言う主張である。ただし論文というようなものでなく、あえて言えばエッセイだ。楽しく読んでさえくれればいいと言ったようなお手軽な本といえる。本そのものも肩の力を抜いている。

 考えてみれば確かにそれはその通りで私など現役のときは仕事が楽しいと思ったことはなく「早く定年退職したいものだ」と何時も思っていた。
ほとんどの人は退職して悠々自適の生活をすると言っても本心ではなく会社にいつまでもいて部下をこき使おうと思っている人のほうが多いが、私は本心で退職したいと思っていた。

 実際退職後の人生のほうがよほど楽しく、一番いいのは上司も部下もまったくおらずこんなさばさばした気持ちになったことはなかった。
私は一人で何でもすることが好きだし、人に何か強制することはそれだけで苦痛だから、一人で楽しくマラソンをしたり登山をしたり地区の清掃に励んだり、遊歩道の草刈やベンチのペンキ塗りを行ってきた。

 一応おゆみ野クリーンクラブのメンバーとして活動しているが、特別集団で何かすることは少なくほとんど単独行動である。
 
すべてこうした活動は赤瀬川さんの言う「肩の力」を抜いた活動だから人とのかかわりがすくなく、快適な日常が過ぎてきた。
しかし分からないものだ。こうして約8年間を過ごすうちに世の中には肩の荷の下りた人が大勢いて、そうした人との交流が進んできた。

 権力志向の人は皆無で趣味人が多く人生に特別不満があるわけでなく楽しく生きている人である。たとえば毎日散歩ばかりしている人や子供達のウオッチャーをしているのだが井戸端会議のほうが熱心な奥さんががたや、走ることが飯よりも好きなランナーたちだ。
最近私がよく付き合っている人に大工おじさんがいる。この人は私より20歳程度若いのだが何しろ大工仕事がすきなのだ。

 誤って日本でもよく知られた会社に入ってサラリーマンをしているが、祭日になると自家用車に何時もつんである大工道具でおゆみ野の森のベンチや遊び道具を作っている。おゆみ野の森の遊具はすべてこの大工おじさんが作ったのだが、今は四季の道周辺の公園のベンチをすべて作り変える計画をたてた。公園のベンチは30年以上たち多くのベンチが朽ちている。
この計画に私も誘われた。

 私など手が不器用だからベンチ一つを作るにもかなり苦労するのだが、大工おじさんはいとも簡単にこの作業をこなしなんとも楽しそうなのだ。
山崎さん、今年中にみんな古くなった公園のベンチをすべて作り変えましょう
趣味で公共のベンチをすべて作り変えてしまうのだからすごいと思うが、ここまで来ると趣味人も本物だ。

 たしかにこうした活動は非常に楽しい。人から指示されてするのではないから時間的余裕はいくらでもあるし、できばえについてもさほどうるさくない。大工おじさんの目指すレベルは高くプロ顔負けのベンチを作ってしまうが私は適当なところで妥協しており、だからと言って文句が言われるわけでない。

 老人力はマイナスの力だが、そうした力があることを多くの人に悟らせた赤瀬川さんは大したものだと思うが、この本は主張を人に押し付けることを意図したものでないから寝転がって読むには最適な本といえる。

なお過去の文学入門の記事は以下のカテゴリーに入っております。
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(26.10.18) 文学入門 吉田満 「戦艦大和」

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 今回の読書会のテーマ本は吉田満氏の「戦艦大和」だった。この本を選択したのは読書会の主催者である河村さんだが、なんとも難しい本だ。
難しさの原因は二つあって、当時の状況が今一つ分からないことと文章が文語で記載されていることである。

 私を含めて現代人はこの文語が読めない。たとえば「報いざるべからず」などと書いてあると報いるのか、報いないのかさっぱり分からないのだ。仕方がないので前後の文脈から推定して読むのだが疲れることはなはだしい。
ちょうど受験英語で問題を読まされているような感覚になる。

 この本の初稿が記載されたのは戦後すぐで、吉田氏は戦艦大和の数少ない生き残り乗務員として是が非でも当時世界最高と言われた戦艦大和の最後を記載したいという情熱から書かれていた。
今から約70年前の話だからすでに歴史のかなたに消え去ろうとしている内容だ。

注)大和の乗員は約3000名でそのうち300名が日本艦船によって救出された。吉田氏もそのうちの1人。

 当時沖縄にアメリカ軍が上陸し、日本は航空機による特攻作戦を継続していたが、天皇陛下から「海軍は投入する兵力はないのか?」と下問され窮した海軍軍令部は大和による特攻作戦を計画したという。
しかしこの特攻作戦は最初から無理があり、援護する航空兵力はなく制空権を米軍に握られていたからいわばカモがねぎをしょって出て行ったようなものだった。

 実際大和の指揮官だった伊藤中将はこの作戦に反対を唱え「無駄死になる」と訴えたが、軍令部は「一億総特攻の魁になってほしい」と言って押し切った。
この作戦には大和以下数隻の駆逐艦が随伴したが、これが日本海軍の最後に残された船隊のすべてだった。

 吉田氏は学徒兵であり職業軍人でなかったが昭和19年から少尉として副電測士として大和に配属されている。
電測士と言われてもどんな役割か今一つ分からないが、ウキペディアによると「電測員は 航海・作戦行動に必要となる情報の収集作図整理評価をし各部署に配布することを目的とする。 一般的には電測員はCICにおけるレーダー機器の操作員と捕らえられることが多いが、それは所掌任務の一面でしかない。 電測員の究極的な任務は、航海/作戦行動における情報の取捨選択を行い、指揮官の意思決定を補佐することにある」と記載されていた。

 吉田氏によると米軍機の大和の偵察飛行は頻繁に行われていて出航前から補足されており、出航してからも刻々と情報が米軍の作戦本部に送られていた。
その情報は暗号文でなく平文で送られていたから、大和の情報担当乗務員から「米軍が大和の動きを手に取るように知悉している」と報告されている。

注)平文で送ったということは米軍は完全に日本軍をカモと見なしていたことを意味する。

 この作戦は一種のおとり作戦で、特攻機が米軍艦隊を襲うのを容易にするため、米軍艦載機を大和攻撃に引き付けることにあった。
なぜそのような作戦をしたかというと、大和は不沈戦艦と言われていたからで、ちょうど潜水艦のようにブロックで仕切られブロックのハッチを閉めればあるブロックが浸水しても他のブロックには影響が及ばない構造になっていたからだ。
だがこの構造も蜂の巣のようにすべてのブロックが浸水しては元も子もない。

 沖縄に到着するはるか前に米軍機の猛攻撃にあって鹿児島沖の海上で轟沈している。
吉田氏は大和出航から轟沈するまでの経緯をルポライターのような冷静さで記載しているが、何としてもこの散華を後世に残しておきたいとの悲しいほどの情熱が感じられる。
今から70年前の若者が何を考えどのようにして死を決意していたかを知るうえでは重要な歴史文書だが、何しろ文語で書かれているため今の人がこれを読むのは至難の技だろう。

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(26.9.18) 文学入門 「人間の建設」 岡潔と小林秀雄

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 いやはや、頭をかかえてしまった。岡潔と小林秀雄の対談集で「人間の建設」という本が今回の読書会のテーマ本だったが難しいのだ。
この本を選んだのは私のかみさんだが、「かみさんはいつもこんなに小難しい本を読んでいるのか」とあらためて顔をまじまじと見てしまった。

 正直言うが私はこの本を4分の1程度読んで根を上げた。いくら読んでも少しも頭に入らないのだ。この本は小さな章単位にまとめられていて、主として小林秀雄が岡潔に質問するという形式をとっている。
読んだ章は「学問をたのしむ心」「無明ということ」「国を象徴する酒」「数学も個性を失う」「科学的知性の限界」までだ。それぞれコメントすると以下の通り。

学問をすること

今は学問を好きになるような教育をしていない。難しいことを好きになるのが学問で、それゆえそうした努力をした大学教授は尊敬されてしかるべきだ。

問)この対談がされたのは今から30年以上も前だが、一体いつの時代に「学問が好きになるような時代」があったのだろうか。単に昔はよかったと言っているだけではないのだろうか。

無明ということ

無明とは仏教用語で「自己中心的な行為をしようとする本能」をいい、西欧でいう自我や仏教でいう小我をいい、これを抑え込まなければ芸術家といえない。
ピカソはこの本能丸出しの芸術家で高く評価できず、坂本繁二郎や高村光太郎はこの無明を超越した芸術家だ。

問)無明などという通常使用されない言葉で表現しなければならないのだろうか。単に「自我が強ければいやらしい面が出てくるのでそれを抑えるのが真の芸術だ」といえばいいのにやたらと言葉が難しすぎる。あえて人が使わない言葉を使用して脅すのを無明というのではないだろうか。

国を象徴する酒

どの国も自分の自慢の酒を持っている。その自慢の酒をこれほど粗末にしている文明国は日本以外にない。かつては個性豊かな酒文化があったのに、今ではどの酒を飲んでも甘ったるいだけで個性が失われた。

問)酒造メーカーの大手が中小の酒屋から原酒を樽買してブレンドしているので、個性がなくなったことは確かだろう。しかしだからと言って酒がまずくなったとは言えないのではなかろうか。この章では酒好きの小林氏が嘆いていたが単に辛口好きの小林氏の口にあわなくなったということではなかろうか。

数学も個性を失う」

最近の数学は単に抽象的になっただけで、実態がなくなった。もともと数学は抽象的なものと思われているがしかしその存在基盤は確かにあって、実在感があった。
今の数学は内容のない抽象的な観念になり下がっている。

問)このあたりになるとさっぱり評価ができなくなり、岡さんが言っているのだから多分そうだろうとしか言えない。
何しろ現代数学の論文を読むためには最低大学院数学科のマスターコースの卒業者でなければ読めないというのだから、現代数学を論じること自体無駄のようだ。小林氏もただ聞いているだけという態度だ。

科学的知性の限界

人は素朴に自然は本当にあると思っているが、本当に自然があるかどうか分からない。自然があるということを証明するには、理性の世界と言われている範疇ではできない。
そして数学も同じで数学に感情がないと存在を確認できない。

問)言っていることがさっぱり分からない。自然や数学の認識には理性だけでなく感情が必要で、「そうだ確かに存在する」と感情が納得しなければ存在証明にならないという。
われ思う、故にに我あり」の世界のことと思うが、特に数学は実態と離れてしまったために、後は数学者が納得するか否かにかかっているということのようだが本当だろうか。

 ここまで読んでこの本を読むことを止めた。日本を代表する知性の対談であるが、だんだんとオカルト的になってきて自分たちの信念をただ述べているだけで、何か宗教的託宣のように感じられたからだ。
自分たちだけで自己満足しないで、もう少し他人が理解できるように対談したらよかったのにというのが正直な読後感だ。

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別件)第4回ちはら台・おゆみ野ハーフマラソンのお知らせ。

以下の日程でハーフマラソンを開催いたします。
① 10月5日(日曜日)
② 午前10時スタート(雨天決行.受付は9時半から)
③ スタート・ゴール ちはら台走友会のかずさの道の集合場所(前回と同じでセンドーのうえ。地図参照)

ルートは以下の地図で確認できます

http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=6d18ea2157947c484ad9c4ec04b246ef
④ 費用300円(実費)
⑤ 参加希望者はこのブログのコメントかメール機能を使用して参加希望を連絡してください。

⑥ なお本大会はすべて自己責任です。

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