(24.5.4) 加曾利貝塚訪問 縄文時代最大の貝塚
私の住んでいるおゆみ野から直線距離で10km程度の所に加曾利貝塚がある。かつて2回ほど見に行ったことがあるが、最近この貝塚を世界遺産に登録しようとする運動があると聞いてびっくりしてしまった。
「あの程度の規模の貝塚で世界遺産の登録が出来るのだろうか」という疑問である。
紹介した毎日新聞の記事では日本最大級の貝塚で縄文時代を代表する遺跡なのだそうだ。
「よし、それなら本当に価値ある遺跡かどうかもう一度確認しよう」
先日加曾利貝塚まで歩いていってきた。最近はどこに行くのも歩きだから縄文時代人とさして変わらない。
ここには二つの大きな貝塚があり、北貝塚は直径130mの環状型で、一方南貝塚は馬蹄形をした長径170mの貝塚である。
作られた年代が異なっており何世代にわたってここに住居があったが、いちどきに存在した住居の数は数世帯の規模で(20~30人程度)、こうした単位が村を形成していたのだと言う。
貝塚博物館に入ろうとしたら縄文時代の服装をしたボランティアの案内人が近寄ってきて実に丁寧な説明をしてくれた。
発掘された土器の展示があったが初期の土器は厚手でとてもユニークな装飾が施されており、後期になればなるほど薄手で機能中心の土器になっていた。
初期には土器すらもなにか宗教的崇拝の対象だったが、後期になればなるほど単なる茶碗に変容しているようだ。
展示品の中で最も驚いたのは漁業用の網で、これはもう現在の網と寸分違わないレベルに到達していた。網の繊維は野に生えている植物からとったものだと言うが現在でも十分使えそうだ。
説明を聞きながら私が一番不思議に思ったのは、なぜ縄文時代が1万年の永きにわたって継続したかと言うことだった。
1万年とは実に長い。キリストの誕生から見ても2000年しか経っていないのにその5倍だ。
人口は最大でも30万人程度で何回かの増減があったが、おそらく気候変動の影響だろう。
あまりに縄文時代が長いので土器の形態から6期に分けており、中学生時代縄文早期だとか中期だとか晩期だと教えてもらったが何のことかさっぱり分からなかった。
「所詮は縄文式土器の時代だろう・・・・・」
私には狩猟と採集の世界が延々と1万年も何も変わらずに続いたと言うイメージで、弥生と縄文を分ける稲作文化と狩猟文化のような決定的な違いがないから土器が好きな人以外は縄文の時代区分があやふやになる。
説明者が「縄文晩期になると貝塚が小さくなって縄文人がいなくなったことが分かる」と説明していたが、私が興味があるのはなぜ縄文人が最終的には東北(北海道を含む)と沖縄と言った僻地にしか残らなかったかと言うことだ(DNAの鑑定をすると東北人と沖縄人のDNAは縄文人の特色を残している)。
北部九州から中国、近畿、そして関東にかけては弥生人が席巻して縄文人を追い出している。
縄文人の一部は弥生人と混血したり山奥に逃げて山人になったり、あるいは弥生人と抗争して死に絶えたのだろう。
なぜ縄文人が弥生人に駆逐されたかの最大の理由は人口問題だと思っている。
縄文時代の狩猟と採集生活では最大でも30万人程度しか人口を養えなかったことに対し、米作集団の弥生人は人口が爆発的に増えたからと思う。
アメリカインディアンと西欧からの移民の増大のような関係だろう。
特に縄文晩期の人口は10万人程度だったが弥生時代に入って60万人に増加しその後100万単位の人口爆発になった。
縄文晩期になぜ人口が急減したかはよく分からない。
おそらく弥生人に駆逐されたからだと思うが、説明者は「千葉県から東北地方に縄文人が逃げて東北には縄文時代が残った」と言っていた。
しかしこれは当時の交通手段から見てかなり難しく、千葉の縄文時代人は駆逐され、一方東北までは稲作が出来ず弥生人が進出しなかったので縄文人が生き残ったと私は思っている。
いづれにしろ貝塚の訪問はなかなか面白く古代のロマンを想像するだけで楽しいひと時を過ごせるものだ。
なお郷土史に関する記事は以下にまとめてあります。http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat43139758/index.html
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