(28.6.3) 病気療養中のため二日に1回の割で過去の旅行記を掲載しています。「蝦夷地探訪記 その12」
病気療養中のため新しい記事は二日に一回の割合で掲載し、その間は過去の探訪記を再掲しております
(22.9.18) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その12
たとえば江戸ですが、今でこそ干拓がすすんで面影はありませんが、かつての江戸は利根川(当時は江戸に向かって利根川は流れておりました)の大湿地帯で決して人が住めるような場所で有りませんでした。
このため都から奥の国に向う旅人はこの大湿地帯を避けて、江戸湾フェリーの航路に沿って、上総の地に上陸していたものでございます。
ロドリゴはこの海岸線に沿った蝦夷の道(別海厚岸線)がとても気に入ったのでございます。
ときどき森が切れて海が広がると紺碧の海が広がり、また平地に下りると原始の湿地帯が広がっていました。
「大和知りたきゃ 蝦夷地においで 葦の野原で 卑弥呼が踊る ハーヨイヨイ」と江戸の童が歌っていたわらべ歌が思い出されました。
注)このわらべ歌はロドリゴが作詞・作曲したものでございます。
(海がいつも開けて見えました)
今日(元禄3年8月19日)は浜中町にむけて愛冠(アイカップ)岬のキャンプ地を後にしたのでございます。
蝦夷の地はアイヌの地名をそのまま和人の言葉にしたものが多いのでございますが、ここ浜中町はアイヌのオタノシケ(砂浜の真ん中)と言う地名を意訳して和人の地名にしたのだそうでございます。
人口は7千人ほどで、ここも80年代は9千人規模だったそうですので、人口低下に悩まされておりました。
この浜中町周辺は釧路湿原に勝るとも劣らない霧多布(キリタップ)湿原が広がっており、特に山の中腹からこの湿原を眺めますと、バイキングが住んでいる北ユアロッパの景色と寸分違わない景観でございました。
「ここは、間違いなく文化の中心、ユアロッパじゃないか」
浜中町には町営の温泉があり、汗と埃まみれのロドリゴにとっては天国のような場所でした。温泉は岡の上に建設されていたため霧多布湿原が一望の下に見え、露天風呂でしばし見とれておりました。
注)岡の上の温泉に行く道を古老に尋ねたのですが、明らかに痴呆症の症状がでており、かえって道が分からなくなったものでございます。
(霧多布湿原)
この日は40kmほど歩いておりましたので、ここの温泉の近くにキャンプを張ろうと思いましたが、約4km程度はなれた場所にキャンプ場があると聞き、そこまで歩いていくことにいたしました。
霧多布岬キャンプ場と申します。
しかし行ってみてがっかりしました。
ここは自動の車やオートバイに乗った和人が多く、ロドリゴのような歩行者はほとんど天然記念物の絶滅種扱いでございました。
夜遅くまで騒がしく、ただ一人でキャンプを張ってきたものには神田明神のお祭りのように思えたものでございます。
このテント場を利用した名簿がありましたので、確認したところ8月になって約400組の利用者があり、その中で徒歩は私ともう一人だけでございました。
「そうか、友はたった一人か!!」
蝦夷地はすでにカニ族が生息する場所ではなかったのでございます。
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