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(26.4.4) NHK 歴史秘話 「清少納言 悲しき愛の物語」 私はひどい誤解をしていた!

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(江戸川の旧上水場)


  ひどい誤解をしていたようだと反省した。清少納言のことである。
私は高校時代に枕草子を読んだころから清少納言をあまり好きになれなかった。
清少納言は好き嫌いがはっきりとしていて、自分の教養におぼれて男を馬鹿にしているように思えたからだ。
これは私だけがそう感じたわけではなく同時代人の紫式部でさえ日記に「清少納言は自分の教養をひけらかしてばかりいる」と言っていたから一般的な評価でもあったらしい。

 さらに私は百人一首に残されている清少納言の歌と紫式部の歌を比較対象してその気持ちを強くした。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ」 清少納言
意(あなた、そんな鶏のまねをして この逢瀬の関を開けようとしても無駄ですよ。私はあなたにそんな気持ちはないのですから)

めぐりあいて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かげ」 紫式部
意(久しぶりにあえてじっくりお話をしたかったのに、夜中の月影が雲に隠れるようにあなたは去ってしまった。とてもさびしいわ。ただしこれは友達を送った時の歌)

 私はこの二首を読み比べて女性であれば紫式部のような女性が一番で、間違っても清少納言のような女性とは関わりたくないと思ったものだ。

注)こうした和歌については前に一度ブログ記事を記載したことがある。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/20629_5163.html

 しかしそうした評価は歴史秘話ヒストリア清少納言 悲しき愛の物語」を見て表面的な評価だったことを知った。
清少納言にとってはどうしても強気であでやかでなくてはならない事情があったからだ。

 清少納言は28歳の時に時の一条天皇のきさきだった定子(17歳)のもとに女房として参内することになったのだが、それは清少納言が教養豊かな女性だとの評判が立っていたからだという。
清少納言は清原元輔の娘だが、元輔は山口県の周防国の国主として赴任しており、清少納言は思春期を周防で過ごしたようだ。
元輔は非常な教養人で和歌の腕も一級だったのでその教養を娘に託した。

 息子でなく娘をトレーニングするというのは何か不思議な気がするが、当時は天皇のきさき(藤原氏の実力者の娘)がそれぞれサロンを持っており、そのサロンに娘を送り込めば藤原摂関家の実力者と懇意になれて、実入りのいい国司の職が得られた。
清少納言が参内した定子は時の関白藤原道隆の娘で、当然その子供は天皇になるものと思われていたが、道隆が病死するとその子の伊周これちか)と藤原道長(道隆の弟)の激しい政争になり、伊周は道長に敗れて配流されてしまった。

 清少納言が定子に仕えた当初の3年間は華やかのものだったが定子の父道隆が死去し、次いで兄の伊周が道長の政争に敗れると、定子の地位は一挙に危うくなり道長の娘の彰子が実質的な皇后となっていった。
定子の館は何者かによって放火され、再建する資金もなく知り合いの貴族の家に間借りする毎日になってしまったという。
当時は天皇家に資産はなくきさきの住居や生活費は親許(藤原氏)が全部拠出していたので、親許が廃れると当然生活が一気に厳しくなってしまう。

注)放火は定子をきさきの地位から追い落とすための道長派の陰謀だった可能性が高い。

 そして定子のサロンのNO1女房としてふるまっていた清少納言は道長と親しい公達と深い関係を持っていたため、定子の他の女房からは道長一派ではないかと噂され、定子のサロンにいることができなくなった(このあたりも道長が裏で仕掛けた可能性がある)。

注)定子も清少納言も当時一流の教養人だったため漢文の素養もあり、互いに尊敬しあってサロンをささえていた。

 こうしたうわさを逃れるために清少納言は父の館に引きこもったのだが、一方定子はますます窮地に追い込まれて住む家はさらに貧弱になり(だから天皇は通ってこなくなる)、サロンを支えていた女房も将来性のない定子のそばから次々にさっていったという。
定子様を支える人が誰もいなくなってしまう。私が支えなければどうなる
こうした窮地を見て清少納言は定子の女房に復帰し、それから孤軍奮闘が始まったという。

 定子から下賜された白地の巻物(当時は紙は非常に高価だった)に定子との楽しい思い出話を書いて定子を励まそうと決心したらしい。
私は絶対定子様を見捨てない。道隆様が健在であったころのあの華やかだったサロンをもう一度復活して定子様の気持を少しでも和ませよう

 枕草子に定子の零落が書かれていないのはこの物語の目的が定子のこころを奮いたたせるためだったからだという
清少納言は随筆を書く傍ら神社仏閣にお参りを繰り返し、定子の行く末を祈念したが、現実の政治は道長がこの世をば わが世とぞ思う」ほど権勢をほしいままにしたから、定子の復活はあり得なかった。

 それでも清少納言は定子が死去する24歳(清少納言は足かけ7年間定子に仕えたことになる)まで定子に仕え、今でいう文学の力で定子を守ろうと決心し、定子亡き後もひたすらその思い出を確かなものにするために枕草子を完成させた。
「定子様こそが本当のきさきで彰子様ごときに負けてなるものか」なにか清少納言の気迫のようなものを感じる。

 私はこうした清少納言の悲しみを知らなかったから、ただ気の強い嫌な女だと思っていたが、それがひどい誤解であることを今回知った。
1000年の時を隔てて清少納言のこころを知り、けなげにも強気であらねばならなかったこの人に今はいとおしさを感じている。

注)なお日本史にかかるブログ記事は以下にまとめて入っております。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

別件)現在おゆみ野クリーンクラブのカンパを求めております。その資金を基におゆみ野四季の道の清掃活動やベンチの補修を行っております。ご協力をいただければ幸いです。

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なお、おゆみ野クリーンクラブの活動の実態は以下を参照してください。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-9bc7.html

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コメント

紙が一条天皇と中宮とに献呈されて、その中宮から天皇の下では中国の歴史書「史記」が書写されることになったが、こちらはどうしょうかと問われたので、清少納言が「枕にこそ侍らめ」と申し出たところ、では紙を与えるので書くようにと命じられ、書くことになったという。そこで、史記の連想から「四季」が浮かんできた。四季を枕に書いてみましょうと答えた。史記にあやかって四季を枕にした和の作品を書いたと考えられるという(五味文彦(中世史専門の歴史学者)。
「春はあけぼの」からはじまり、「冬はつとめて」とおわるなかで、四季の移ろいを枕を交わした人と見るのがよい、という思いを底流にしながら、中宮定子にお見せする目的で書かれたもののようです。(2013年10月20日、日経文化欄から要約)

ご参考まで

(山崎)そうでしたか。教えてくださりありがとうございます。

投稿: 秋田 | 2014年4月 4日 (金) 11時54分

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