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(26.3.19) BS歴史館最終回 足利尊氏の開いた室町幕府

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 私が初めて歴史を学んだとき最も不思議だったのはなぜ室町幕府はこれほど弱体だったのかということだった。
それは鎌倉幕府江戸幕府と比較してみると一目瞭然で、将軍の所領はほとんど存在せず、幕府の高官が互いに将軍を担いで権力闘争を行い、将軍はしばしば殺害されるありさまでどう見ても幕府らしからなかったからだ。

 結果的に分かったのはこの室町幕府を創設した足利尊氏がほとんど権力に執着しなかったからだとその理由を知った。ただし全く執着しなかったというのは間違いで時には権力志向になるがすぐに嫌になって、「もうやだ、俺は引退して和歌を作っていたい」なんて気分になって引きこもってしまう、なんとも気分家の性格だった。

 尊氏は実に権力者らしからぬ人物だったが、鎌倉幕府の筆頭御家人清和源氏の流れを引く由緒正しい家柄で鎌倉幕府の大番頭北条氏などは及ぶべくもない家柄だったことが、北条氏に弓を弾く大きな原因になった。
本来ならば俺が源氏本家を次いで北条氏に代わって幕府を開くべきではないか・・・・・」そう心の底で思っていた。

 機会が訪れたのは後醍醐天皇が中国の朱子学を学んで神がかりになり北条氏討伐の綸旨を流したからで、すぐさま幕府は後醍醐天皇を捕縛し隠岐の島に島流しにした(1332年)。
通常はこれで一件落着になるはずが、後醍醐天皇の息子護良(もりなが)親王が挙兵し、一方後醍醐天皇も隠岐を脱出して鳥取に陣取り、さらに天皇派の楠正成が千早城で幕府軍を苦しめたりしていたので、幕府は今度は本気になって足利尊氏を総大将とする大軍団を送ることにした。
今度は徹底的に後醍醐天皇側を掃討する!!

 この時太平記によると尊氏は「父親の喪があけておらず、一方病気がちなのに総大将にさせるなんて北条氏はひどい」と恨みを持ったということになっているが、これはほとんどありえない。喪中だから戦闘をしないのは中国の儒教、それも朱子学の影響だが尊氏が朱子学の徒だという証拠はない。
それよりも京都方面に向かう途中で千早城攻めで失敗した鎌倉方の敗残兵にあうにしたがって、「これはどうも鎌倉幕府もガタが来たな。それなら俺が幕府を開こうか。俺は由緒正しき清和源氏だ」と思ったのだろう。

 しかも後醍醐天皇の綸旨護良親王の令旨では北条氏を討てとなっているので、大義名分はある。さっそく幕府の京都出張所六波羅探題を襲ってこれを一蹴すると諸国の御家人はみんな反北条氏になってしまい、1334年に北条氏は鎌倉で全員討死してしまった。
これで頼朝や家康ならさっそく幕府を開くところだが、尊氏は全くその気がなくなったのか以降2年間は神がかりになった後醍醐天皇の新政のサポートをしている。

 後醍醐天皇は朱子学の教義に則り徳治政治を行うつもりだったが、一方ですべての所領争いは後醍醐天皇が裁断するとしたので、案件が山のように積み上がり事務処理どころではなくなってきた。あまりの事務の多さに根を上げて翌月にはこの命令を取消、「今のままで良しとしろ」ということに変えた。
実際は後醍醐天皇は側近の公家に所領を分配してしまったために、反北条に立ち上がった御家人に分配する所領などなかった。

 収まらないのは尊氏に従って北条氏を倒した御家人だ。
なんで恩賞が無いんだ。北条氏の所領を分配すればいいじゃないか。尊氏殿何とかしてくだされ」ということになった。

 ちょうどその時期に北条氏の残党が決起し鎌倉を攻めて占領したため、後醍醐天皇は尊氏に北条氏の掃討を命じたが、さすがに人のいい尊氏も今度は「うん」と言わなかった。
私に征夷大将軍の称号と恩賞を与える権利を賜りたい
当時戦いに勝利すれば恩賞を与えるのが決まりでこの権利を持つ者こそが本当の支配者だったので、後醍醐天皇は拒絶した。
駄目だ、恩賞は天皇みずから与える

 尊氏は天皇の命令を無視して鎌倉に出向き北条氏の残党を一蹴して従った御家人に恩賞を与えたのだが、これに後醍醐天皇が激怒した。
あのやろう、俺の徳治政治を無視してまた鎌倉に幕府を作るつもりだな!!
今度は後醍醐天皇は尊氏追討の綸旨を出したので、尊氏はそんなつもりはなかったのですっかりしょげかえってしまった。
実際は尊氏の動きを陰で操っていたのが弟の直義ただよし)で、将軍職も恩賞の件も直義の進言に従っただけだったので尊氏は後醍醐天皇の怒りが理解できなかった。

直義、俺はもうやだ。天皇には誤解されるし、寺にこもって和歌を作るから政治向きのことはお前に任せる
しかたなく直義は足利軍を率いて尊氏掃討軍に対抗したが直義は戦闘には全く向かないタイプで掃討軍に蹴散らされてしまった。
兄さん、あんたが出なきゃ勝てないよ。寺にこもっていないで戦闘に出てくれ」

 尊氏が寺から出たのは「弟の命を救うため」だったから何とも武士としては優しすぎる。
尊氏はその後の戦闘にも勝利し後醍醐天皇を破って室町幕府を京都に開いたのだが、本当は幕府の将軍になどはなりたくなかったようだ。
政務は直義にまかす」といってもっぱら和歌を作っていた。

 なぜこの時期から南北朝が始まったからというと、尊氏が後醍醐天皇を死に追い込まなかったからだ。
まあいろいろ事情もあるのだろう。後醍醐天皇の都合もあるだろうから好きないさせよう。こっちはこっちで天皇を立てればいいや」相手を徹底的に追い詰めないところが家康と違う。
おかげで後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開き以来60年にわたって南北朝の時代となる。

 やはり幕府の性格はその創設者の性格によって全く異なったものになる。何事も大雑把でものに拘泥せず、敵方を簡単に許してしまう尊氏の性格がその後の室町幕府の弱体化を招いた。何しろその後の将軍は尊氏のような戦闘上手でなかったから権威だけで生きていかなくてはならなかったからだ。
BS歴史館最後の登場人物は足利尊氏だったがこの人を最後にしたのはBS歴史館も皮肉が効いている。
激動の時代は思わぬ人物が権力者になってしまうということだ。

なお日本史のシリーズは以下にまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

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