« (26.2.12) 経常収支赤字の恐怖 日本経済の瀬戸際 | トップページ | (26.2.14) 奥州藤原氏はなぜ敗北したか! 経済大国・軍事小国の末路 »

(26.2.13) 東北はなぜ寂しいのか? 奥州藤原氏の敗北と平泉の衰退

Dscf6394  
(雪の四季の道を走っていたランナー)

(お知らせ)
2月16日に予定されていた四季の道駅伝は積雪が深く中止することになりました。昨日(13日)NAS近辺の遊歩道300m程度の雪かきをしたのですが、溶雪していない場所の雪かきはかなり苦労しました。準備を懸命に行ってきたのでとても残念ですが、子供の怪我等を考慮した決定ですのでご了承ください。



(ここからが本文)

 私がどうしても理解できなかったことは「どうして北はさみしいのか?ということだった。
北と言う言葉は何かそうした物悲しさを漂わせる言葉だ。それを端的にあらしているのが演歌で、石川さゆりさんの代表曲「津軽海峡冬景色」では恋に破れた女性が青函連絡船にの乗って「さよなら あなた 私はかえります。ああ津軽海峡冬景色」と絶叫し、さらに東北よりさらに北の北海道については山川豊さんが「函館本線」で「さよなら あなた 北へ北へ 北へかえります。心の糸が消えたまま 男と女は暮らせない・・・」と歌っている。
演歌では恋に破れた女性は北に帰ることが定番で決して南には帰らない。どうしてなのだろうか??

注)正確にいうと「京都から博多まで」という演歌もあるが圧倒的に少ない。

 私は長い間、東北は寂しい場所でさらに北海道は江戸時代まで日本の領土とは明確にされていない場所だったから、さらに寂しかったからだろうと思っていた。
はっきり言えば辺境地帯で人も物もすくなく今も昔もそうだったと思っていた。
しかしこの考えはかなりおかしいことに気付いた。かつての辺境が今は繁栄のただなかにあることはいくらでも例があるからだ。

 たとえばイギリスは16世紀ごろまではヨーロッパの田舎だったが19世紀にはパックス・ブリタニカとして世界に君臨していた。19世紀アメリカはイギリスから見たらど田舎だったが20世紀はパックス・アメリカーナの時代なっていた。
そのアメリカの西部は19世紀をとおしてインディアンの住む荒野だったが、今はアメリカのIT産業やアミューズメントパークのメッカになっている。
だから辺境がその後世界の中心に変わることはいくらでもある。

 しかしなぜ東北は大和政権の昔から現在に至るまで辺境の地位にとどまっているのだろうか。その答えは奥州藤原氏の敗北とその都であった平泉を奥州の都として残せなかったからだと気が付いた。
最もそう気が付いたのはNHKのBSプレミアムで奥州藤原氏の「英雄たちの選択 頼朝か義経か 北方の王者の挑戦」をみたからだ。

 奥州藤原氏とは12世紀の約90年間平泉を拠点に奥州に君臨した独立政権だが、源頼朝の政治力と軍事力によって1189年に滅亡させられた。
それもかなりあくどいやり方で滅ぼされており、以来東北には独立した政権が存在しない。
当時の奥州は意外にも都人からも鎌倉政権からもは非常に豊な土地と思われていたが、その経済力の源泉は金の独占的採掘と北方貿易による交易収入だったという。

 この時代奥州は狩猟・採集・漁労と稲作がまだら模様に点在していた地域で、縄文時代が半分弥生時代が半分という土地柄だった。
したがって富は農業というその後の日本の基幹産業ではなく鉱山業や貿易業から成り立っていた。
近代的な感度でいえば重商主義であり、鎌倉政権が農業生産だけの農本主義政権だったのに比較すればはるかに進んでいたと言える。

 しかし実際は奥州藤原氏は28万の関東武士団に攻められ、あえなく当主の泰衡やすひら)は敗走したがその途中で部下に裏切られて殺害されている。
当時奥州藤原氏には17万人の軍隊があったと言われており、また福島県の交通の要所に阿津賀志山あつかしやま)防塁(馬で越せられない)を約3kmにわたって築いて応戦したのに実にあっけない敗北だ。

注)私が日本史を見ていつも驚くのは最終的に勝利するのが常に農業政権であることだ。鎌倉幕府は平氏と奥州藤原氏を滅ぼしたが、平氏も藤原氏も交易を重視する重商主義政権だった。
また江戸幕府も典型的な農業政権だが、滅ぼされた豊臣政権は交易を重視していた。
また現在でも農業団体の力は実に強大でTPP一つとっても政府はまともに決めることができない。なぜ日本は農業集団がこれほど強大なのだろうか。不思議でならない。


 番組の説明では鎌倉武士団が平家との5年にわたる激闘でいわゆるベテランぞろいの戦士だったのに比べて、奥州藤原氏の軍勢はまったく戦争の知らない新兵ぞろいだったことがあげられるが、それなら当代一と言われた義経を総大将にしてなぜ戦わなかったのか非常に疑問だ。
頼朝の要請形式的には後白河法皇の院宣)で「義経の首を指しださなければ奥州藤原氏を打ち取る」と脅されていた関係はあるが、義経の首を差し出しても頼朝は奥州に攻めてくることを見抜けなかったのはやはり泰衡は甘かったのだと思う。

注)泰衡は1年余り逡巡した後、頼朝軍28万の勢力を恐れて義経を殺害しその首を頼朝に届けた。


 そして何より不思議なのは当時東北随一の都市と言われた平泉がその後中尊寺を残して跡形もなく消えてしまったことだ。鎌倉や京都に匹敵する大都市が単なる農村地帯になってしまうことがあるのだろうか。
せめて平泉がその後の歴史においても都市として機能していれば、東北がこれほどさみしさを漂わせる場所にはならなかったのだと思う。
しかし実際は芭蕉が歌う「夏草や 兵どもが 夢の後」という状況になってしまっており、歴史が断絶している。

 この時泰衡が義経を総大将にしてゲリラ戦で頑張れば、冬に弱い鎌倉武士団はナポレオンの退却を余儀なくされたと思われる(なお頼朝が攻めあがったのは7月)。
そして平泉が東北王国の都市として存続すれば、東北が鎌倉武士団の植民地になることはなく、精神的に追い込まれることはなかっただろう。
やはり頑張り切れなかった泰衡の敗北がその後の東北人のメンタリティーを決定づけたと言えそうだ。

 その後東北は鎌倉武士団や江戸武士団の植民地の扱いを受け、現在に至るも東京の支配を受けている。

注)京都や大阪が東京に対抗できるのは過去に政治経済の中心があったからで、そうした歴史も遺跡もない場所は精神的にさみしい場所と言える

なお東北関連の記事としてアテルイの敗北があるがそれは以下参照
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d27a.html

(別件)ちはら台マラソンのご案内

3月15日(土)に第1回市原ちはら台マラソンが行われます。
   種目は10km、5km、2km、1kmです。
   コースはすべて公道を使用して、白バイの先導もあります。

コースは以下のとおりです。

(10km)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=561210b401f2b16a5c8bdc88ecb
b0880

(5km)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=52a9cd953c0833d66bc02ab0c21
cf318


runnetの参加申し込み締め切りは 2月17日までです



|

« (26.2.12) 経常収支赤字の恐怖 日本経済の瀬戸際 | トップページ | (26.2.14) 奥州藤原氏はなぜ敗北したか! 経済大国・軍事小国の末路 »

歴史 日本史」カテゴリの記事

コメント

確かに敗北という望ましくない状態を表わす言葉があるかと思うと、その一方に指南という希望満ち溢れる言葉があります。東西南北という方向を表わすだけの漢字がそれ以外の意味を持っているという事なのでしょうか。興味深いですね。

投稿: バカボン | 2014年2月18日 (火) 15時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« (26.2.12) 経常収支赤字の恐怖 日本経済の瀬戸際 | トップページ | (26.2.14) 奥州藤原氏はなぜ敗北したか! 経済大国・軍事小国の末路 »