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(26.2.3) BS歴史館 大塩平八郎の乱  なぜ大塩は乱を起こしたのか?

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  歴史的人物として大塩平八郎ほど理解が難しい人物はいない。大塩平八郎の乱とは江戸後期の天保8年1837年)に発生した乱で、大阪町奉行所元与力大塩平八郎が門弟40人余りと起こしたたった一日の反乱だったが、時期とその反乱の内容が何かとても早いすぎるように感じる。
幕末より30年も早く、その内容は集団自殺のような反乱だった。

 もしこの反乱が幕末の薩摩や長州の下級武士が尊王攘夷を叫んで討幕運動をしていた時期に一致すれば、何が起きてもその文脈の中でとらえることができる。
しかしこの時代はまだそうした運動は全く発生しておらず、幕末の30年前に大塩平八郎だけが立ち上がったのだから驚きだ。
当時幕府の戦闘力はまだ健在で、ほとんど勝つ見込みのない「たった一人の反乱」(門弟40名が参加したが)が大塩平八郎の乱だった。

 大塩平八郎は元大阪町奉行所与力だから、今でいう大阪府警の警部のような立場だった。地方公務員であって大阪より外に転勤することのない身分でノンキャリアと言える。
一方町奉行所のトップである奉行は江戸より直参の旗本が赴任してきて、今でいうキャリア官僚として君臨していた。
どんなに努力しても大塩は幕府の官僚体制の下では大阪の与力以上に出世はできなかったと言える。

注)大阪には東西に奉行所があり、奉行一人、与力30人、同心50人が定員だった。

 大塩は大変有能で清廉潔白な警察官だったようだ。幾つもの難事件を解決したが、なかでも西町奉行所筆頭与力が黒幕の殺人強盗事件を解決したのが最大の功績だが、その1年後に大塩は与力を辞めている。おそらく奉行所内部の腐敗をただしたのが奉行所内での大塩の地位を危うくさせたのだろう
腐敗した官僚組織の中では清廉潔白ということは組織にとって最も危険な人物ということになるからだ。

注)アメリカ映画では腐敗警官を告発する清廉な警官がかえって警察組織の中で孤立していく様が描かれるが、それと同じだったのだろう。


 大塩はその後今でいう松下政経塾のような塾を開き塾生を教育していたが、彼の学問的バックボーンは陽明学だった。陽明学とは儒学の中で知行合一」を説く非常にラジカルな思想で「知識と行いは一致しなければならない」と主張しており、知識と行為を分離して考えていた当時主流の観念的儒学の朱子学に対するアンチテーゼだった。

 大塩平八郎が反乱を起こした直接の動機は天保の大飢饉と言われている。1835年から37年にかけての約3年間にわたった大飢饉で、冷夏の影響で東北地方の穀倉地帯は全滅し、大阪では日に200名の餓死者が出ていたという。
大塩は大阪東町奉行所奉行 跡部山城守に嘆願書をだし、特にコメを買い占めている町人からコメの供出をさせるように要請したが、この嘆願書は一蹴された。
元与力の分際でご政道に口出しするとは身分をわきまえん奴!!

 一方跡部らキャリア官僚は「大阪の窮状より江戸の窮状を救え」の老中からの指示に従って、大阪のコメを江戸に無理やりに輸送し続けていた。それが幕府中枢で出世する手段だったからだ。
お上の命令である。コメはすべて江戸表に送れ!!
こうした状況に大塩平八郎の怒りが爆発してしまった。
大塩は自分の蔵書を処分し約1億円の資金を集めて困窮者にコメを配給したがそれだけでは大阪窮民を救うのに十分な資金とはとても言えなかった。
そこでコメを買い占めていた大商人の倉庫を襲い、コメを民衆に解放しようとしたのが大塩平八郎の乱だが、この反乱はたった一日で収束してしまった。
密告があって幕府は大阪城に鎮圧部隊を配置していたからだ。

 しかしこの大塩の乱はそれだけにとどまらなかったという。大塩は幕府老中、水戸藩主徳川斉昭、昌平坂学問所林述斎あてに3通の密書を送っていたが、ここには大阪町奉行所にかかわる不正無尽の告発が記されていたという。
不正無尽とは一種のトトカルチョで一番近いイメージはサッカーくじである。

 胴元は町奉行所で一種の公的なくじだが、その胴元の上がりは約3割だった。サッカーくじの胴元の政府は約5割を取っているから、この無人のほうがはるかに良心的ではあるが、問題はこうした資金が大阪城代や奉行と言ったキャリア組に上納され、キャリア組の重要な資金源になっていたことだった。
この時期幕府官僚の懐も火の車でトトカルチョでかろうじて生計を支えていたことになる。

 これを大塩平八郎が告発したのだが、当時の老中の6人のうち4名がこの無尽により不当な利益を得ていたという証拠を突きつけている。
この密書は当然のことに老中から黙殺され最近まで歴史に埋もれていたが、今から28年前にその写しが発見され大塩が何に憤って決起したかが分かってきた。

 幕府崩壊の30年前にたった一人で異議申し立てをした大塩平八郎は、ゲストで出演していた黒鉄ヒロシ氏の言葉でいうと「人としての美しさを体現し、日本の歴史にきれいにさいた花」だと形容されていた。
知行合一」の思想の実践として、不正を不正として正して展望なき戦いに突き進んだ大塩は確かにそうした美しさを持った人物だったと言えそうだ。

なお日本史に関するブログ記事は以下にまとめて入っております。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html



 
 

 

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