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(25.11.15) NHK ケネディ大統領への背信 後篇 強硬派との対立

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注)この記事は昨日の前篇の続きです。

http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-cb23.html

  このドキュメンタリーを見てつくづく感じるのは、なぜケネディが暗殺され、フルシチョフが解任されたか推定できることだ。
ケネディの暗殺は1963年、そしてフルシチョフの解任は1964年だった。
ともに軍部強硬派からその弱腰外交を非難され、米ソの共存などはあり得ないと確信していた反対派から排除されたのだ。

 ピッグス湾侵攻作戦の失敗から立ち直れなかった1961年秋、今度は南ベトナムでホーチミンが支援した民族解放戦線に南ベトナムのゴ・ジィン・ジェム政権が窮地に陥り始めていた。
CIAや軍部強硬派は気が気ではなかった。
このままいくと東南アジアはすべて共産主義勢力に乗っ取られる。ケネディを脅し上げてでも南ベトナムにアメリカ軍を派遣して、ベトコンを殲滅しなければならない。二度とピッグス湾の失敗を繰り返してはならない

 1961年11月、CIAと軍部強硬派はテイラー・ロストン報告書を作成してケネディ大統領に迫った。
4万人の戦闘部隊を南ベトナムに派遣し、さらに北ベトナムに対する13万人の抑止部隊を展開すれば南ベトナムからベトコンを排除できる
しかしケネディは民族独立運動の歴史的趨勢を理解していたのでこれに反対した。
上院議員であったときベトナムを訪問し次のように述べている。
たとえベトコンが共産主義者の指導の下にあったとしても、民族独立運動そのものを武力で押しつぶすことは不可能だ

 結局軍部強硬派とケネディの妥協案は軍隊でなく軍事顧問団を南ベトナムに送り込むことだった。ケネディは軍や警察の指導はしてもアメリカ軍が戦闘に出ることを禁止したが、軍首脳は反対になし崩し的にベトナム戦争への参戦を目指していた。
指導中にベトコンから襲われたら反撃せざる得ないではないか!!」同床異夢だったのだ。

注)私は長い間アメリカの南ベトナムへの介入がケネディによってなされたことが不思議だったが、今回初めてこれが軍部強硬派との妥協案だったことを知った。

 政権内にはアチソンを中心とする強硬派がおり、また軍参謀本部はそのトップをケネディが交代させても軍事侵攻論を弱めることはなかった(軍部は誰もが強硬派だった)。
特に戦略空軍を指揮していたルメイ将軍はケネディの弱腰外交を非難してやまなかった。
ケネディのおかげでキューバは共産主義者の巣窟になり、南ベトナムはベトコンの餌食だ。ケネディにはこの問題を解決する能力はなく、われわれだけが真の愛国者で共産主義者の棟梁跋扈を防ぐことができる

注)戦略空軍とはソ連との核戦争を準備していた部隊。B52戦略爆撃機や核搭載ミサイルを配備していた。

 一方ソ連のフルシチョフもケネディをなめきっていた。1961年のベルリン封鎖をケネディが黙認していたからだ。
よし、あの若造の鼻をへし折るにはキューバに中距離弾道ミサイルを配備し、ワシントンとニューヨークを標的にすればおじけづいて何もできまい。我々はキューバを起点に中南米で革命を起こせる

 1962年10月、アメリカの偵察機がキューバに中距離弾道ミサイルが配備されていることに気が付いた。急遽ケネディは戦略会議を開催したがそこでの意見は強硬派一辺倒になった。
ルメイ将軍は「すぐさま空爆でミサイル基地を叩き潰す。もしこれにソ連が反対して核戦争に打って出るなら応じてやろうではないか。すでに戦略空軍にいつでもソ連を核攻撃できる配置を命じてある
陸軍も上陸作戦に賛成し、ノルマンディー上陸作戦と同規模の上陸作戦の用意があると進言した。

 しかしここでもケネディは強硬策をとることに反対し、海上封鎖というより穏やかな措置をとることにした。
核戦争だけは何としても防ぐのがケネディの方針だったからだ。そうしておいて今度はソ連を脅し上げた。
キューバからの核ミサイルの発射はソ連によるアメリカへの核攻撃とみなして全面的な報復攻撃を実施する

 海上封鎖のアメリカとソ連のやり取りは何度も映画化され迫真の場面になっているので映画を見た人はイメージを沸くことができるだろう。
ケネディは核戦争を防ぐためにフルシチョフと直接交渉をして、最終的にはキューバから中距離弾道ミサイルの撤去を認めさせた。
交換条件はアメリカが二度とキューバ侵攻をしないと約束したことと、トルコから秘密裏に核ミサイルを撤去するというものだった。

注)当時アメリカはトルコとイタリアに中距離ミサイルを配備していた。

 この交渉は一般的にはアメリカの勝利と評価され、そのためフルシチョフの立場は急激に悪化し、ソ連強硬派の巻き返しで1964年に第一書記の立場を解任され幽閉の身に堕ちってしまった。
一方ケネディも急進派から強く攻撃された。
ルメイ将軍は「我々は負けた。キューバに侵攻すべきだった。もっと早く手を打てばこんなことにならなかった。ケネディはチェンバレンのように弱腰だ

注)チェンバレンとはヒットラーとの妥協政策をとったイギリスの首相。

 だがケネディも軍強硬派に負けてはいなかった。フルシチョフとの対話の窓口が開かれたことを機会に、ソ連と核実験禁止条約を締結する交渉を開始し、「アメリカが率先して核実験を行うことはない」と演説して、ソ連へ条約参加へのシグナルを送った。
ケネディは核攻撃も核実験にも反対だったからだ。
さらにカストロとの対話路線さえ模索したため、ついにCIAと軍部強硬派は切れてしまった
ケネディをこのまま大統領にしておくと、再選されて都合8年間も融和政策をとり続けることになる。そんなことをさせれば世界中が共産主義国家になり、アメリカは包囲されてしまう。あの若造にそんなことはさせてなるものか

 1963年11月22日、ダラスでケネディ大統領は暗殺されたが、いまだ犯人像は明確になっていない。
当時はマフィアによって殺害されたということになっていたが、それはあり得ない。
やはり確信的にケネディを排除し、そうすることがアメリカの利益になると盲信していたCIAと軍部強硬派がケネディの排除を狙ったものだろう。
ケネディとフルシチョフはともにその融和策で核戦争を回避したが、そのことが国内の強硬派を激怒させ、日本的なイメージでいえば2.26事件のようなものを起こしたのだと私は思っている。

なおBS世界のドキュメンタリーシリーズは以下にまとめて入っています。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/nkk/index.html

 

 

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