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(25.11.14) NHK ケネディ大統領への背信 前篇 強硬派との対立

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(軽井沢 雲場池)

 とても興味深いドキュメンタリー番組をBS世界のドクメンタリーで放送している。ケネディ大統領が暗殺されてから50年たったのを機会にアメリカのプロダクションが製作したものだ。
前篇はケネディが強硬派の意見に押し切られキューバへの反革命、ピッグス湾事件を起こして大失敗した経緯を詳細に追っていた。

 ケネディが大統領に就任したのは1961年1月、そしてダラスで暗殺されたのが1993年11月だから、ケネディが大統領でいたのはたった3年間だったが、アメリカのどのような大統領より印象に残る大統領だった。

 大統領が暗殺された日のことは今でもはっきり覚えている。私は当時高校生だったが日米間の衛星放送が始まったその日だった。私は衛星放送を非常に楽しみにしていたが、流れた画面が大統領の葬儀だったのには驚愕した。当初これは非常に悪い冗談だと思ったほどだ。

 しかしこのドキュメンタリーを見直してみて1961年と言う年が世界史のエポックだったことがよく分かった。
1961年4月15日、突如亡命キューバ人によるキューバ奪還作戦ピッグス湾で敢行されたが、これはケネディ大統領をだましてCIA長官ダレス軍首脳が実施した戦争だった。

注)1959年1月1日にキューバ革命がカストロ達によって達成され、アメリカ資本の接収が行われていた。当時のキューバの支配者層はキューバを逃れてフロリダに亡命政権を作っていた。

 ケネディが聞かされていたのは、亡命キューバ人が立ち上がればキューバ国内で半カストロ勢力が立ち上がって、反革命は成功すると言うものだったが、CIA長官ダレスの真意は違っていた。
アメリカ空軍の支援なくして亡命キューバ人部隊は勝てない。国民はカストロを支持しており、反革命など起こらない。だからアメリカ軍が直接参戦してカストロ政権を打倒する以外に方法はない。ケネディはお坊ちゃんで何も知らないから、いったん事を起こせば空軍の投入を認め、次は陸軍の派遣を認めるに違いない

 しかしダレスや軍首脳の予想に反してケネディはそんなお坊ちゃんではなかった。
この戦争に仕掛けられていた罠を見破ると、アメリカ軍の投入にGOサインを出さなかった。
亡命キューバ人部隊はアメリカ軍の支援を失いたちまちのうちにカストロの軍に打ち負かされて、1000人以上の捕虜を出して撤退した。
ベトナム戦争以前に行ったアメリカの軍事作戦の最大の汚点になった作戦である。

 私は当時まだ高校生でありアメリカの政治情勢など全く理解できていなかったが、1961年1月17日に、前大統領だったアイゼンハワーが歴史に残る離任演説をしていた。
軍産複合体が不当な影響力を獲得することに用心しなければいけない。この見当違いの勢力が悲劇をもたらす可能性は存在し、今後も持続していくだろう」と言ったのだ。

 アイゼンハワーと言えば第二次世界大戦の英雄で、実際対ドイツ作戦の最高責任者だった軍人の中の軍人だが、彼でさえ1961年当時は軍産複合体を制御する力を失っていた。
ケネディはアイゼンハワーの後継者となったが、ケネディを補佐する軍首脳やCIAは全くケネディを馬鹿にしており「あの第二次世界大戦の時に中尉どまりの男に、アメリカの戦略など任せられない」とたかをくくっていたという。
CIAや軍首脳はロシアを核戦争で殲滅する計画を立てており、それを青二才のケネディ(大統領就任時43歳だった)に認めさせるのが彼らの使命だと思っていた。
そしてキューバを奪還し、さらに核戦争によるソ連殲滅プランを盛んにケネディにブリーフィングしていたという。

注)ケネディの軍事スタッフはアイゼンハワーのスタッフを引き継いだものだが、アイゼンハワーが「見当違いの勢力」と呼んだいわゆる対ソ強硬派のグループだった。

 一方ケネディの思惑は違っていた。ロシアのフルシチョフ首相と話し合いを行って、何とか東西冷戦、わけてもドイツ問題に決着をつけたいと思っていた。
ケネディは対ソ強硬派と異なりソ連との共存路線を模索していたことになる。
当時ベルリンはロシアが占領していた東ドイツのただなかにあった孤島で、ベルリンそのものも4か所に分断され、それぞれアメリカ、ロシア、イギリス、フランスが部分占領していた。
ケネディはこのベルリンを何とか守りたかったが、それにはフルシチョフの暗黙の了解が必要だと考えていた。
そのためキューバで戦争を起こすことに反対していた。

 キューバ侵攻作戦に失敗すると「キューバ侵攻作戦は失敗だった。責任はすべて自分にある」とケネディは国民向けに演説し国民は一応納得したが、納得しなかったのは政権内にいた強硬派とケネディ本人だった。
ケネディは張本人のGIA長官ダレスを首にするとともに、以下のような挑戦的な演説を行っている。
CIAを粉々にくだき、風に向かってまき散らしてやる

 一方政権内で強硬外交を推進してきたアチソンは自分の仲間内の会合ではケネディをこき下ろしていた。
率直に言おう。この国にはリーダーシップを欠いている
さらに強硬路線をともに推進してきた元トルーマン大統領あてに「ケネディの弱腰外交がロシアを喜ばせ、我が国は危機に直面している。核戦争を起こすこともできない」と伝えていた。

注)アチソンはトルーマン政権の国務長官で、ロシア封じ込めを目指したトルーマンドクトリンの実質的な起草者。外交問題のエキスパートとしてケネディ政権のアドバイザーになっていた。なお日本に原爆を投下する許可を与えたのがトルーマン。

 ケネディは国内の強硬派を抑え、フルシチョフとの交渉にかけたが、こちらの方も一筋縄ではいかなかった。
1961年6月3日と4日に行われた会議は明らかにケネディの位負けだった。
フルシチョフはケネディが自分の息子と同じ年だと確認して、ケネディをガキ扱いしたからだ。
「今年の冬までに西ベルリンを封鎖する。文句は言わせない」とフルシチョフはケネディを脅し上げた。

 実際その年の8月からベルリンには東西を分断するベルリンの壁が建設されたのだが、ケネディはこれに対して黙認を決め込んだ。
ケネディとしたら黙認することでベルリン問題をこれ以上悪化させず、一種の安定状態にするつもりだったが、フルシチョフの判断は違っていた。
アメリカは不幸な国だ。あんな男を大統領にえらぶなんて」と公言していたし 、実際脅し上げれば引き下がる弱虫男とみなしていた。
よっしゃ、アイゼンハワーと違ってケネディはガキだ。この機会に世界中に民族独立運動を起こしてアメリカを叩き潰そう

 こうして1961年はケネディにとって散々な年になってしまった。ピッグス湾事件では保守強硬派がケネディを見限り何とかしてケネディを大統領から引きずりおろそうとしていたし、一方ロシアのフルシチョフはケネディを見下げはてた男とみなして世界共産主義運動を推進していた。
そうしたなかでケネディは国内保守強硬派とロシアのフルシチョフの強硬路線に板挟みになって、背中の激痛を我慢しながら、世界平和を模索していたといえる。
私ははたして核戦争から世界をすくえるのだろうか
弟のロバート司法長官と二人になるとそういって涙を流していたという。

 
 私は当時の情勢をよく覚えているが、世界中が今にも共産主義国家になりそうな勢いになり、日本国内では左翼勢力が言論界を圧倒していた。
私が通った高校では共産党員の教師が何人もいて、そうした教師が左翼教育を行い生徒に圧倒的な人気を誇っていた。
世界中が共産主義運動に熱狂していた時代だったといえる。

(前篇終了、後篇に続く)

なおBS世界のドキュメンタリーシリーズは以下にまとめて入っております。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/nkk/index.html

 

 

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