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(25.10.21) BS歴史館 東京遷都 マル秘大作戦

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  今回のBS歴史館「東京遷都 マル秘大作戦もなかなか面白かった。
なんと「首都を東京に定めた詔がない」のだという。たとえば平安遷都の場合は正式な詔はあるのだが、東京遷都であるのは「京都と東京を日本の首都に定める」という詔だけだという。
谷村新司の歌に「三都物語」という歌があるが、こちらは「二都物語」なのだ。

じゃー一体なんで東京が首都になったんだ」ということになるが、明治新政府を実質的に作り上げた大久保利通、木戸孝允、岩倉具視が3人で謀議をこらし、実質的に都を京都から東京に移してしまったのだという。

 慶応3年186710月の大政奉還から戊辰戦争が終結した明治2年18695月までは、日本に実質的に二つの政体維新政府と旧幕府軍)があって、西の京都と東の江戸(その後は函館)が対立していた。
維新政府は当初京都に都をおいていたが、最初は大阪に、1968年4月の江戸無血開城以降は江戸に都を移すことが計画された。
しかしそれが一筋縄ではいかなかったのだという。

 大政奉還大久保利通はすぐさま維新政府を大阪に遷都する計画を立てた。1968年1月のことである。しかしこれは天皇や公家の大反対にあってすぐさまつぶされてしまった。
千年の都を移すなど持っての他で、長州や薩摩の下級武士が政治を公家から奪うものにそういない」という感度だったという(武士より公家の方が政治力があるとの感度)。
しかもこの1月から維新政府と旧幕府軍は戊辰戦争に突入し、以降2年以上も戦争状態になるので遷都も並大抵のことではなかった。

 大久保は大阪遷都失敗の教訓から、まず天皇を京都御所から外に行幸させる計画を立てた。時に明治天皇は15歳、京都御所以外に外に出たことがないというお坊ちゃんだったからだ。
慶応4年19683月、天皇は生まれて初めて御所を出て大阪に行幸したのだが、この時大阪城では維新政府軍の歩兵の閲兵をし、大阪湾では海軍の演習を視察している。
海外では皇帝はこのように軍隊の長として閲兵や視察をするのでございます
天皇側近になった岩倉具視が懸命に明治天皇を教育した。

注)この時期は戊辰戦争の最中でまだ江戸には将軍家があった。

 大久保、木戸、岩倉と言った維新三羽烏は因習がはびこる京都を離れ、天皇を近代的なエンペラーになってもらうために、今度は慶応4年4月に無血開城した江戸に遷都しようとしたが公家の反対を無理に押し切ることもできなかった。
よっしゃ、それならとりあえず京都と江戸を両方都としておいて、実質的に東京を首都にしてしまおう。政府も天皇も江戸にうつってしまえば公家が何を言ってもこっちのものだ

 慶応4年18687月、維新政府は京都と江戸を両方都とする詔を発し、その時江戸を東京と改名することにした。東京とは東の都という意味で江戸のままでは都合が悪かったからだ。
そうしておいて9月に天皇の東京行幸を実施させた。何しろ一度天皇に東京を見てもらって「東京もなかなかいいものだ」と思わせようとの作戦だ。

 かつて天皇が岐阜より東の東えびすが住む土地に足を踏み入れたことがなかったし、明治天皇は先の大阪行幸で初めて御所を出たという経験しかなかったので、この旅は少年明治天皇(15歳)にとって実に物珍しい旅だったに違いない。
最も大久保や岩倉には別の思惑があり、東海道を30日あまりかけて新たな君主は将軍でなく天皇になったのだということを国民(武士と町人と百姓)に知らしめるデモンストレーション効果を狙ったものだった。

 こうして何とか天皇を東京につれてくることに成功し、9月には年号を慶応から明治に改元した。
江戸を東京に変え、年号を変え、天皇を東京に連れ出したまでは成功したが、しかしこの年の12月には天皇は京都に帰っている。
理由は婚姻の儀式のためだが、もう一つは京都と東京がこの時は首都だったからである。
天皇はんがお江戸ばかりにおられてはあきまへん。京都もみやこどすえこれは京都言葉になってるだろうか?)」

 しかしまだこの時期は戊辰戦争のさなかで、特に函館には幕府海軍を引き連れた榎本 武揚が頑強に抵抗していた時期だから、何としても天皇を東京に連れ戻して天皇の権威で維新政府の政策を実行させなければならない時期だった。
当時大久保達が考えていたのは版籍奉還で土地と農民を藩主から取り上げて年貢を維新政府に集めるようにしようとした。
何しろ維新政府と言っても財政的には全くの金欠状態で、当時の資金の8割は紙幣の印刷、残りの2割は商人等からの借金だというから、今でいえば国家予算の8割が国債発行で残りの2割が金融機関の借り入れということになる。

何としてもふたたび天皇を東京に戻し、その権威で版籍奉還を実施しなければ維新政府が崩壊する
大久保の懸命な説得で天皇が東京に戻ってきたのは明治2年19693月で、その日以来天皇は京都に戻ることはなかった。
京都の公家や町衆からしたらまんまと騙されたようなもので、「大久保、木戸、岩倉は三悪人でごじゃりまするこれも京都言葉になっているだろうか?)」ということになる。

 今回のBS歴史館を見て正直言って感心してしまった。今でも遷都論など出れば上を下への大騒ぎになるが、この時戊辰戦争を戦いながら獲得した領地(江戸)に首都を移転させてしまった大久保らの手腕は大したものだ。
最もその手段は、日本人が得意とする「形式はそのままで実質を変える」というもので、現在の日本国憲法をそのままに自衛隊という軍隊を作り上げた手法と同じだ。

 私は維新政府を作った三羽カラスは大したものだと思うが、一方形式だけ残されて実質的に首都を移された京都の人々の恨みは「こりゃ、根が深そうだ」と思わざる得なかった。

注)なお日本の歴史については以下にまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

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