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(25.8.7) BS歴史館 古事記 大和の懸命な生き残り策

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(トシムネさん撮影 妙高山)

 私は古事記については全く知識がなく、中学の歴史の教科書でその名前を覚えたものの、中に何がかかれているか全く知らなかった。
今回のBS歴史館古事記を扱っていたが、古事記は上・中・下の三巻からなり、上巻は神々の話、中巻は神と人間のかかわり方、そして下巻が人間界の話だそうだ。

 出席者の一人が「古事記は上巻だけ読めば十分で、内容はとても楽しいファンタジーだ」と言っていたが、ここに現れてくる神々は欠点や弱さを持った何とも頼りなく愛らしい神々だという。
そもそも日本の国を作ったのはどの神かということが問題になるが、もともとこの葦原の中つ国を支配していたのは大国主の命で、大国主の命からこの国をアマテラス大御神が譲られ、そのニニギの命にこの国の支配を委ねたのだという。

 日本神話はとても不思議なのだが、もっとも不思議なのはこの大国主の命が実にあっさりと国を譲って、自らは出雲大社の奥に隠れてしまったことで、こうした神話は世界でも例がないという。
なぜ日本では政権の交代が「簒奪」ではなく「国譲り」になってしまうかというと、これこそが大和政権で古事記を実際に作らせた持統天皇が目指した統治方法で、力ではなく話し合いでことを収めようと願ったからだという。

 古事記は681年に天武天皇が国史編纂の詔を発してから30年の月日をかけて編纂され、天皇も天武、持統、文武、元明の4代にわたって編纂作業が行われた。
何とも悠長な話だが、その間古事記の内容が何回か書き直されたらしい。

 古事記とは当時の天皇家の支配を盤石なものにするためにかなり意図的に作成された神話で、特に「国譲りの神話」は当時の政治情勢を色濃く反映していたのだという。
古代日本のもっとも大きな危機は663年に大和・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に白村江で完膚なきまでに叩きのめされたことだという。
大和の対外戦争の最初の大敗北で、ちょうど太平洋戦争で負けた日本と同じような状況に置かれてしまった。

 戦後日本はすっかりアメリカン・スタンダードを採用しほとんどアメリカの属国のようになることでかろうじて生存権を確保したが、白村江の敗戦の後の大和も同じような状況だったという。
唐風の政治体制を採用し、都を唐風に変え、そして大和が大和となった神話を作り出さなければならなかった。
国生みの神話が無くてはまともな国家として認めてもらえなかったからだという。

注)唐風スタンダードを採用したがそれだけでは唐の属国になってしまうので、大和が大和であるアイデンティティーを確立するために神話が必要だった。

 そこで天武天皇が詔して神話を作成することにしたが、実際にその作業を推し進めたのは天武の妃だった持統天皇690-697)で、持統天皇は今風に言えばヒラリー・クリントンのような女性だったらしい。
国譲りの神話は持統天皇が目指した国のあり方国体)で、天照大神が持統天皇、ニニギの命が持統天皇の孫の文武天皇697-707)だという。

 文武天皇は15歳で即位したが、これは当時としては異例な即位形態だった。それまでは実力者で30歳以上が天皇になる資格だったが、これ以降血筋がもっとも近いものが天皇になることになった。
そのことを正当化するために古事記が作られたという(おばあちゃんから孫への譲位)。

注)持統天皇は702年まで生きたがその間文武天皇の実質的な摂政を行っていた。

 さらにこの時期豪族から土地と人民を取り上げ、公地公民の制度を引いて唐風の中央集権国家を確立しようとしたが、それが戦争ではなく豪族の自主的な国譲りによって行われたという擬態が必要だったという。
出雲は最後まで豪族の支配権を譲らなかったが、最後に話し合いで大和政権に服属することになり、それを神話化したのが出雲神話だと出席者の一人が説明していた。

注)唐から大和を守るためにも中央集権国家が必要だったが、それを内戦で行うのではなく平和的に国譲りで行っていきたいというのが持統天皇の気持ちだった。
なお白村江の戦いの後の壬申の乱については以下参照
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/bs-a829.html

 私は長い間古事記は日本の歴史書として読み伝えられていたのだと思っていたが、実際はその8年後に完成した日本書紀が正式の歴史書になり、古事記は天皇家の私的な物語としてその後かえり見られることはなかったのだそうだ。
その古事記を再び世に知らしめたのは江戸期最高の学者だった本居宣長で、彼の労作によって古事記が再び日本人の歴史としてよみがえったのだそうだ。

 日本においては日本書紀が正式な歴史書で、文体も古事記の和文ではなく漢文で記載されていたが、この日本書紀を編纂したのは藤原不比等だった。
以降藤原氏が実質的な権力を掌握し、天皇は象徴としての権威を維持したのだが、古事記とはその天皇家の権威を維持するための歴史書であったと言える。

なお、日本の歴史シリーズは以下にまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

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