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(25.8.1) BS歴史館 新選組 時代を先駆けた最強軍団 近藤勇

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(トシムネさん撮影 妙高山)

 近藤勇と言えば私が小学生のころはいつも鞍馬天狗にやられてばかりいるさえない敵役で、新選組が鞍馬天狗を追い詰めても鞍馬天狗から「近藤さん、また会おう・・・」なんて言われ取り逃がしていた。
だから私は長い間新選組は悪い奴らで、その頭目が近藤勇だが何ともだらしない人間だと思っていた。

 そうした私の観念を覆したのが司馬遼太郎氏が書いた「燃えよ剣」で、これは土方歳三を主人公にしているものの、新選組隊士それぞれを実にイキイキ描いていてとても印象深かった。
この小説で私は始めて沖田総司永倉新八といった新選組隊士の名前を覚えた。
そして何より新選組隊長だった近藤勇武州三多摩日野宿の出身者で、土方歳三はじめとする隊士がその近在の百姓出身者だったことに驚いた。

 私は武州三多摩八王子宿出身である。日野宿は八王子宿から8km程度の場所にあり歩いても2時間、走れば40分程度の距離だ。
かつて近藤勇試衛館という道場で天然理心流というすこぶる実践的な剣術を教えていたが、当時武州三多摩は八王子を中心に養蚕のメッカだった。
当時(幕末)の日本の主要輸出産業生糸だったことから、八王子は現在でいえばトヨタ自動車がある豊田市のような位置づけだと言ったら分かりやすいだろう。

 産業の中心が農業だったこともあり、当時は農村地帯は相対的に地位が高かった。たとえば明治期になって東京で中学校現在は高等学校)が設置されたが、府立一中が今の日比谷高校で、府立二中現在の立川高校)は三多摩の立川市に設置されている。
三多摩を無視できないばかりか、そこに多くの名主や富農階級がいてその子弟の教育が必要だったからだ。

注)ついでに言うと国立大学の設置場所も非常に地方重視だ。北海道などにすぐに大学を設置したり、京都に京大をつくっており、地方の地位が現在より高かったことが分かる。

 今回のBS歴史館は「新選組 時代を先駆けた最強軍団 近藤勇」だった。
近藤勇が世に出るきっかけになったのは近藤30歳の時に将軍が京都に上洛するおりその身辺警護を幕府が公募したからだ。
これに近藤勇を含めて8人の試衛館のメンバーが参加した。

 これは実に不思議なことだ。もし徳川家康の時代だったら自身の警護は子飼いの武士団が難なく成し遂げたが、260年の太平の世で旗本八万騎はすっかり行政官になってしまい、剣の使い方すら分からなくなっていたからだ。
幕末になると江戸幕府は本当の意味での軍団がなくなっており、それを外注しなければならないほど軍事力がなかった。

 近藤勇達は京都に着いた後は今度は京都守護職会津中将松平容保私設警備団になっているが、これも会津藩士はまともな警察力を持っていなかったためだ。
京都には幕府正式の役所として京都所司代京都奉行所はあったが、長州土佐の脱藩浪士といった武装勢力を取り締まる実力はなかった。
そのために勤皇派志士の取り締まりは、実際の武装集団としての新選組が必要だったことになる。

 新選組が一躍幕府側のスターになったのは池田屋事件である。
1864年だから江戸幕府が崩壊する4年前だが、京都池田屋に長州、肥後、土佐の脱藩浪士約30名が集まり、京都に放火をしてそのすきに天皇を拉致し長州につれさる計画を立てていた。
これを素早く探索した新選組は約10名の隊士で池田屋に切り込み、7名を刺殺23名を捕縛している。
10名で30名に打ち勝つのだからいくら急襲したとはいえ、新選組の実力のほどが分かる。
幕末最強の軍団と言われる所以だ。

 新選組には局中法度という鉄の規律があり、これに違反したものはすべて切腹させられている。
新選組は最盛期には300名程度の軍団(赤穂藩浅野家と同程度の軍事力)になっており、そのうち約20名程度の隊士が切腹あるいは惨殺されている。
鉄の掟とは現在的感度では軍隊の鉄の規律といったところで「逃亡者は射殺」といったところだ。

 幕末期こうした鉄の規律を持った軍団は幕府側には新選組以外はなかった。そうした意味で日本における近代軍隊の最初の実践的取り組みと評価されており、その組織を実際にまとめていたのが鬼と言われた土方歳三である。
土方は近藤が千葉流山で捕縛され斬首された後も榎本 武揚が率いた幕府艦隊に合流し最後は函館戦争で壮烈な死を遂げている。

 私は新選組に対して何とも言えぬ親近感を持っているのだが、私自身が武州三多摩八王子宿の出身であり、近藤や土方の足跡をたどることが容易な場所にいたからだろう。
また私が小学生のころまで八王子はなお絹の町として知られ、実際私の父親は絹織物関係の仕事をしており、武州三多摩が輝いていた時代の最期を知っているからかもしれない。

なお、日本の歴史シリーズは以下にまとめて記載されています。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html

 

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コメント

いつも大変興味深く読ませていただいています。
つい先だって、米沢で近藤勇の首が埋められているお墓というのを知り、コメントをしてみたくなりました。ここは知る人ぞ知る場所だったらしいですが、もう真実をオープンにしてもいいだろうとカミングアウトした場所だそうです。
米沢に住んでいた勇の従兄弟が、惨殺された勇の首を供養のために密かに上野から持ち出して彼の故郷の米沢に埋めたのだそうです。そのころの佐莫派の遺体は埋めて供養などしてはおとがめがあったそうで、野ざらしにされ、ひどい状況だったのではないでしょうか。その従兄弟もどんな気持ちで勇の首を米沢まで運んだのでしょう。その話は近くの酒饅頭のおいしいことで有名なお店で聞きました。
我が家の近くにも(宇都宮です)六道という場所があり、古いお堂があります。そのそばにも切り捨てられうちすてられた会津藩士を住民が弔った碑があります。

今でもそのような歴史を感じる土地を歩くと、当時無念に死んで行った方々の魂が「現代人しっかりしろよ」と喝をいれてくれるような気配を感じます。

(山崎)とても興味深い話をありがとうございました。私も清水港に打ち上げられた徳川方の兵士を清水次郎長が「死んだら薩摩も徳川も関係ネイ」と言って供養した話を聞いたことがあります。

投稿: もちもち | 2013年8月 1日 (木) 08時29分

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