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(24.6.11) BS歴史館 邪馬台国の謎 女王卑弥呼はどこにいたのか?

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 先日のBS歴史館は300年の国民的ミステリーと言われている女王卑弥呼のいた「邪馬台国の謎」だった。
実際この邪馬台国ほどロマンを掻き立てるミステリーはない。あのシュリーマントロイのように邪馬台国の場所を発見できれば歴史的偉業になるから、考古学者や歴史学者が熱狂するのは無理もない。

注)ただし考古学者は表面的にはこの邪馬台国の場所の確定については平静を装っている。そんなことは新聞記者が騒いでいるのだと言う態度だ。

 この問題を最初に取り上げたのは江戸時代の碩学新井白石で、魏志倭人伝に記載された地名と日本に存在している地名からその場所を確定しようとした。
いき(壱岐)、まつろ(松浦)、なか(那珂)、うみ(宇美)などはすぐに特定でき、そして邪馬台国は大和だと白石は当初考えたが、その後の研究で九州にも山門と言う地名があったため、両論併記のまま残した。
九州か奈良に邪馬台国があったがどちらとも決定できない

 この両論併記に対し明治時代に入って東大の白鳥庫吉と京大の内藤湖南が大論争を始めた。
白鳥庫吉は魏志倭人伝の日数の記載が間違っており、邪馬台国までの距離水行10日、陸行1月は、水行10日、陸行1日の間違いで、水行とは川をさかのぼることで邪馬台国は九州にあると断じた。

 これに対し内藤湖南が噛み付いた。間違いは日数ではなく方位であり、南に水行10日、陸行1月ではなく、に水行10日、陸行1月でしたがって邪馬台国は大和盆地にあると主張した。

 今回のゲストは考古学者の松木武彦氏、中国三国志の研究家渡邊善浩氏、それに武士の家計簿の著者で何でも興味を持つ磯田道史氏だった。

 松木氏によるとこの3世紀半ばの邪馬台国の時代は弥生時代から古墳時代にかけての移行期にあたり、ムラからクニができる中間期だという。
考古学的立場から邪馬台国を確定するには魏から送られた金印が出土するか、装封(そうふうといわれる粘土でできた封印のかけら(現在的なイメージで言うと手紙が入っている封筒)が見つかれば有力だが、その可能性は低いという。

 一方で九州には吉野ヶ里という高楼や城柵や環濠を持った集落跡が発見され、魏志倭人伝の記述そっくりであることが確認されたが、大和でも纒向(まきむく)遺跡で高楼群が一直線に並んだ(都市計画された)建設跡が発見され、どちらも卑弥呼の屋敷跡に擬せられているという。

 今回の出演者の中で三国志の研究家渡邊氏の話が最も興味深かった。氏によるとなぜ魏志倭人伝2000文字にわたってこのように詳細に記載されたかの理由は、魏にとって邪馬台国が戦略上重要だったからだと言う。
の宿敵はであったが、この呉を挟み撃ちする同盟国として邪馬台国が期待された。
したがって邪馬台国の情勢を詳細に知ることは魏にとって外交上の重要事項だったという。

 ただし当時の地理的状況は魏にとっても不明であったが、呉の背後(現在の台湾アタリ)に邪馬台国があっと思っていたらしい。
一方で朝鮮半島から対馬を経て北九州にいたる道は分かっていた。
そのため邪馬台国に至る道は魏の使者の推定と(魏の使者は北九州まで来たが邪馬台国までは行っていない)、実際に魏志倭人伝を記載した陳寿の地理的センス(邪馬台国は台湾アタリにある)で書かれた可能性が高いと言う。

 そうなると理論的結論は邪馬台国は東に日本列島が延びるのではなく南に向かって伸びていなければならない。
そうでなくては魏と共同で呉の背後を突くというよう地政学的なセンスは生まれない。

 こうして魏志倭人伝では南に水行10日、陸行1月と言うようになっていると言う(ただし水行10日はともかく陸行1月はおかしい。大阪の入り江についてから1日で大和盆地に入れるはずだ。これは1日の間違いだと思う)。

注)なお渡邊氏は番組では邪馬台国は単に台湾あたりにあったと魏は考えたといっていただけで、上述のように北九州を基点に南に伸びるとまでは言っていない。しかし北九州の位置は明確だったので、邪馬台国が台湾アタリにあるとすれば日本列島は南に伸びることになる。

 また磯田道史氏の話も面白かった。当時の邪馬台国は北九州から大和までを包含した広域国家で、北九州はその後大宰府がそうであったように文明の取り入れ口だったと言う(大宰府的な場所が当時からあったことになる)。
そして北九州がより豊かだったのは鉄器等の生産用具が豊富にあったためで、経済は北九州がはるかに進んでいて江戸時代の江戸と大阪と言うような関係だったという。

 私の認識でも古代と言う時代は水上交通の時代陸上交通は律令時代の五畿七道が整備された時代まで待たなければならなかったはずだ。
3世紀は瀬戸内海こそが最大の交通路でここに北九州から岡山そして大和にかけての小さな小国家が発展し、非常にゆるい共同体があったのだと思っている。

 魏の使いは北九州まで来てそこに留まり、卑弥呼のいる邪馬台国の風俗や政治体制や道順を聞いたが、当時の日本人は地理的感覚がないから方向などはかなり危うい説明だったはずだ。
あっちの方向に舟で10日も行けばつくべえ」なんて感じだったのではなかろうか。
それを中国のインテリの陳寿が彼の世界観と地理的センスで南に10日、海をわたることにしたのだろう。
そうした意味で魏志倭人伝を読む限り、卑弥呼の邪馬台国はやはり大和の纒向にあったのだと私は思っている。

なお、日本史に関する記事はいかにまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html





 

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コメント

私も山崎さんの意見に賛成です。
東大寺に伝わる古文書によれば、大和の読みは“ヤマト”ではなく“ダイワ”であったそうです。さらに文献をさかのぼると大倭(ダイワ)であったことは歴史的事実ではあるのですが、どうも戦前の体制からすると具合が悪かったらしく、ひた隠しにされてきたらしいのです。ちなみに、大倭から大和に名称変更するときは、沢山の豪族たちが天皇家を中心に“和”を持ってまとまろう、という意味で名付けられたらしいですね。・・・どうもツマラナイ話で申し訳ありませんでした。

(山崎)大倭(ダイワ)と邪馬台国の関係が良く分からないのですが、大倭(ダイワ)とは中国人が付けた名前でしょうか。
意図的にいやしめる文字を周辺諸国に付けるのは中国の伝統ですが。

投稿: 三太郎 | 2012年6月11日 (月) 23時47分

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