« (24.5.2) BS世界のドキュメンタリー 絶食療法の科学 | トップページ | (24.5.4) 加曾利貝塚訪問 縄文時代最大の貝塚 »

(24.5.3) BS歴史館 日本を変えたリーダーたち 会津藩主 保科正之

Dscf5440

 最近の私のお好み番組はこのBS歴史館で、日本を変えたリーダーのシリーズ第一回目が西郷隆盛だったが、二回目に保科正之ほしな まさゆき)が選ばれたのはびっくりした。
一般的に日本人は保科正之を知らない。この番組のキャスターの渡辺真理さんでさえ知らなかったと言っているくらいだからほとんど知名度はないといっていい。

 私は井沢元彦氏の逆説の日本史16 江戸名君編を読んでいたので保科正之のことは知っていたが、今回の放送を見て「これほどの名君だったのか」と驚いた。
保科正之は二代将軍秀忠の子供だが正室お江の子ではない。お江は最近のNHKの大河ドラマに出てきた信長の妹、お市の方の娘でめっぽう気が強く秀忠に側室を認めなかった。
あんた、私の目を盗んで他の女に手を出したら承知しないわよ

 しかし秀忠も男だ。大奥に上がっていた町人の娘で気立ての良いお静に手を付けた。お静が懐妊するとお江に知られるのを恐れた秀忠はそっとお静を気丈で見識の深かった武田信玄の娘の見性院に預けた。
どうかお江の魔手からお静と子供を守ってほしい秀忠も情けない。
その後お江から子供を殺す目的で差し出せとの強い要求が来たが見性院はこれをはねつけ、正之7歳のとき武田家ゆかりの高遠3万石藩主保科正光正之をあずけることにした。

 通常徳川一門松平姓を名乗るのだが、保科正之保科正光が自分を保科家の後継者(正光には子供がなかった)にしてくれたことを感謝し、生涯保科の姓を変えることはしなかった。律儀なのだ。
この保科正之こそが江戸幕府の武断政治から文治政治に変えた最大の立役者で、家康に並んで江戸260年の平和の礎を築いた人であると今回改めて認識した。

 
 保科正之は三代将軍家光に気に入られたが、この腹違いの弟は決して自分が将軍の弟であることをひけらかすことなく、ひたすら臣下として忠勤に励んだからだと言う(家光は家光に逆らった実際の弟を切腹させている)。
その間正之は、高遠3万石から山形20万石、さらに会津23万石に出世した。
保科正之は家光の治世のときは主として藩政改革に取り組んだが、会津を江戸期を通じて最も民生が安定し平和な藩に作り変えた。

 具体的な藩政改革は以下のとおりだった。

① 検地をやり直して農民の負担を軽減させた。それ以前の藩主が過酷な取立てをしていたので領民はびっくりして隠し田を自ら申請したと言う。
一般に税率をあげるとかえって税金が減り、税率を下げると税金が増える)

② 社倉制度(
米備蓄制度)を創設し、冷害が発生すると備蓄していた米を領民に2割の利息で貸し出したが、もし2年続けて冷害が発生すれば借金をチャラにした。
(
東北地方は常時冷害が発生したがこの制度で会津藩では餓死者が出なかった

③ 90歳以上の年寄りには米を与える生涯年金制度を設立した。
これによって会津藩は年寄りを大事にする気風が芽生えた。

④ 他国から来た商人が病気になった場合は無料で医療行為を施した。
このため会津には商人が安心して商取引に訪れた。

⑤ 家臣団は土地を与える地行制でなく米を現物支給する蔵前制に改めた。
これにより家臣団は藩主に忠誠を尽くす機能集団になり一致団結の気風が生まれた。


 こうした地方政治の改革を行い、会津は人口が11万人から幕末には17万人まで増加し、東北きっての大都市にまで発展したと言う。

 だが保科正之が本当の意味で日本史に足跡を残したのは1651年家光が臨終の間際に4代将軍の11歳の家綱の後見人に保科正之を指名してからである。
これ以降保科正之は内閣総理大臣として幕政改革に取り組んだ

 実はこの時期は幕藩体制が武断政治から文治政治に変わる過渡期にあたった。幕府の基礎が固まると今までの戦闘集団としての武士は必要なくなり、官僚組織としての武士に代わる必要があった。
それを強力に推し進めていったのが保科正之で、保科正之の3大改革という。

① 末期養子の禁の緩和

藩主に子供がない場合はその藩は取り潰されたが、藩主が死に際に誰かを養子にすると指定すればその養子を藩主として幕府が認めるという制度。
実際にも藩主が急死することが多く、しかも後継者がいない場合が多くあり(藩主が特に若い場合)藩取り潰しになっていたが、届出さえあれば末期養子として認めることにした。
これによって武士の浪人化が防がれ社会が安定した。
由井正雪の乱の3ヵ月後に発布している

② 大名証人制の一部緩和

それまでは大名の正室と嫡男、および家老の正室と嫡男を江戸に住まわせ人質としていたが、このうち家老の証人を不要としたもの。
人質は藩主の正室と嫡男だけで十分と緩和した。

③ 殉死の禁止

それまでは殉死が当たり前に行われており、家光の老中堀田正盛、安部重次も殉死している。
これは主君に対する忠義を意味しているが今後は江戸幕府に対する忠義を求めることに変え、有能な武士が殉死するのを防いだ。

 こうした3大改革は時代の推移を的確に把握して実施したもので、多くの武士集団から高く評価された。

 さらに保科正之が本領を発揮したのは日本最大の大火10万人の死者を出し、これに匹敵するのは関東大震災東京空襲ぐらいといわれる明暦の大火の対応である。

 このとき保科正之は信じられないようなリスク管理を行った。東北大震災でパニックに陥った菅首相とは雲泥の差がある。

① 将軍家綱を江戸城から避難させると言う案をけって、江戸城内に災害対策本部を設置し将軍が最高責任者として災害対策に当たらせた。この時江戸城の天守閣が焼け落ちている(責任者があちこち動き回るようでは対策にならない)。

② 浅草にあった米倉庫を開放し「米蔵の米取り放題」と布告した。焼け出されていた江戸市民はこの浅草に集まり米蔵を火災から守るとともに緊急物質を手に入れることが出来た。餓死者を出さない緊急措置といえる。

③ 災害復興費としてご金蔵にあった16万両を一気に放出し、火災から強い都市の建設に取り掛かった。上野広小路はこのときに出来た道路で火事の飛び火を防ぐ目的で作った。
また隅田川に新たに両国橋を建設したが、これは逃げ遅れた江戸市民が隅田川に落ちて多く溺死したことに対する対応であった。
それまでの幕府政権は川にはなるべく橋をかけないようにしていた

④ さらに江戸幕府の象徴であった天守閣の再建は無用な公共工事だといって取りやめさせた。ヤンバダムを復活した今の民主党政権に聞かせてやりたい決断だ。
その後江戸ではしばしば火災が発生したが、この明暦の火災のような大災害に及ばなかったのはこの広小路と両国橋の成果である。

 聞いていて驚いてしまった。今回のゲストは漫画家の黒鉄ヒロシ氏や「武士の家計簿」を書いた磯田准教授たちだったが、保科正之を絶賛し黒鉄ヒロシ氏などは感動して声を詰まらせていた。
私も思わず保科正之東日本大震災のときの総理であってくれたらどんなに日本人は助かったことかと思ったほどだ。
保科正之は実に魅力にあふれたリーダーだが、その功を誇らず59歳で引退するときに自らの事績の記録はすべて焼却してしまった。
すべての功績を将軍家綱のものとしたのである。
確かに西郷隆盛に比すべき人材だ。

なお日本史に関する記事は以下にまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat47308511/index.html
 

 

 

 

|

« (24.5.2) BS世界のドキュメンタリー 絶食療法の科学 | トップページ | (24.5.4) 加曾利貝塚訪問 縄文時代最大の貝塚 »

歴史 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« (24.5.2) BS世界のドキュメンタリー 絶食療法の科学 | トップページ | (24.5.4) 加曾利貝塚訪問 縄文時代最大の貝塚 »