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(23.11.6) 世界史の忘れ物 ハンニバル戦記 なぜハンニバルはアルプスを越えたか

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 高校生の時に世界史を学んでどうしても理解できないことがいくつかあった。
そのうちの一つにハンニバルアルプス越えがある。
ハンニバルとはローマカルタゴの3度の死闘のうち、第二回目の闘いのカルタゴ側総司令官である。
なぜ、ハンニバルはわざわざ最も困難なアルプスをしかも象まで引き連れて越えたのだろうか。しかもこうした行軍中に6万の軍勢のほぼ半数が谷に落ちたり川でおぼれたりして死んでしまったという。戦う前に半数の人数が死傷してしまうような闘いはそもそも負けではないか?」そう思っていた。

 この疑問を解くために最近塩野七生氏ローマ人の物語ハンニバル戦記」を読んでいる。
塩野七生氏ローマ人の物語は新潮社の文庫本で全40冊に及ぶ大作だが、そのうちの3,4,5巻が「ハンニバル戦記」となっている。
読んでみると分かるがこの本は物語と記載されているだけあってとても面白く飽きることなく読める。私は引き込まれるようにしてこの本を読んでしまった。

 ハンニバルとローマの闘いは第二次ポエニ戦役と言うのだが紀元前219年から前201年まで、おおよそ20年間にわたって繰り広げられた死闘で、現代的なセンスから言えばとても信じられないような長期戦だ。
しかもローマとカルタゴは都合3回も戦火を交えており第一回目は紀元前264年から前241年までのこれも20年余りの死闘だった。

 大雑把に言えば20年間死闘を繰り返し、20年間の休戦期間を挟んで再び20年間の闘いをしたことになる。
何か第一次世界大戦で敗れたドイツが再度の世界大戦を仕掛けて再び敗れてしまったのに似ているが、近代の世界大戦が5年程度で収束するのに対して20年に及ぶところがいかにも古代だ。

注)最後の3回目は紀元前149年から前146年の4年間であっさりとかたがついている。そうした意味でこの第二回目が本当の決戦だった。

 私は闘いのためハンニバルカルタゴ(現在のアフリカのチュニジア)からローマに向かったのだと思っていたが、これは誤解だった。ハンニバルスペインから出発している。
なぜスペインかと言うと第一次ポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴは、その停戦条件としてカルタゴの植民地があったシチリア、コルシカ、サルジニアといった西地中海の海から追い出されてしまった。
また軍艦の建造も認められなかったため、仕方なしにそれまで未開人しかいなかったスペインにカルタゴの名門バルカ家ハンニバルはそこの直系)は上げて植民活動をおこない、ここに第二のカルタゴを建設していたからだ。

 ハンニバルの父ハミルカルハンニバルに遺言をしていた。
ローマを撃って(第一次)ポエニ戦役の屈辱を晴らせ
ハンニバルが海路ではなく陸路を通らざる得なかったのは、カルタゴにはローマと戦える海軍がなかったからである。
ハンニバルが引き連れた軍勢は歩兵5万、騎兵9千、そして象37頭だった。
スペインを出発してピレーネ山脈を越え、今のフランス当時のガリア)の奥深くを通過し大河ローヌ川を渡り、グルノーブルからアルプスを越えて現在の北イタリアのトリノに攻めこんでいる。
この間には標高2000m級のアルプスの峠があるが、おそらくそのどこかの峠を越えたのだろう。

 しかし現在と違って当時の陸路はほとんど道がないのに等しい。あってもそこに住んでいる部族が使用する山道のような細い道だから、まともに通ることも不可能だ。
特に当時は川に橋など架かっていないからローヌ川を渡るだけで1万3千名の兵士と象7頭がおぼれてしまったという
これが行軍なのだろうか、これに匹敵する愚挙は旧日本軍のインパール作戦ぐらいな物ではなかろうか・・・・・」

 ハンニバルがアルプスを越えたのは9月である。アルプスでは夏でも雪が降る。まして9月になればかなりの降雪を覚悟しなければならない。そして道はといえば羊飼いがヒツジを追って通れるだけの山道だ。
最近モンブラン山岳マラソン(8月に実施されている)映像を見たが、人が通ることはできるがとても象や馬が通れる道には見えなかった。おそらく当時の道は山岳マラソンで使用した山道より険しかっただろう。

 ハンニバルはこのアルプスを越えるのに15日間をようし、イタリア側に降り立つことができた兵士は歩兵2万、騎兵6千だったから、このアルプス越えで2万強の兵士が死んだことになる。象はほとんどが崖から落ちてしまった。
やはりハンニバルは頭がおかしかったのではないか、これでは死ぬために行軍しているようなものだ。ローマはただ待っているだけで勝てるではないか・・・・」

 私がそう思ったのは古代の戦争を知らなかったからで、この時代の戦争は(ローマを除いて)兵士は現地調達するのが一般的だった。
なにも強制的に兵士にするのではなく、自陣につけば利益が上がると見せて懐柔するのである。
イタリア北部にはローマにしたがうことを潔しとしないガリア人の部族が大挙して住んでいたが、ハンニバルはローマとの闘いで勝利を収めるたびに周りのガリア人を自軍に加えることによって、瞬く間に5万の兵力になってしまった。

注)日本でも源氏と平氏の戦いを見ていると、勝つほうに味方する武士がいくらでもいた。

 もちろんスペインからハンニバルに従ってきた近衛兵はいるのだが、戦闘ではこの近衛兵をできるだけ温存し、現地調達したガリア兵をローマと戦わせている。
なるほどね、ハンニバルはガリア人を味方にするためにわざわざアルプスを越えたのか。そして兵士の消耗にも平気だったのは勝利すればいくらでもガリア兵を補充できていたからか・・・・

 人命を尊重しないと言う意味ではなんともひどい司令官だが、古代戦のやり方と言うものがようやく理解できた(アレキサンダーの東方遠征もこの方式だったのだろう)。
高校時代から不思議に思っていた疑問が一つ解けてとても嬉しくなってしまった。

なおローマ史は以下の記事にまとめてあります。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/cat44866001/index.html



 

 




 


 

 

 

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コメント

なかなか面白いお話を有り難うございます。ただ塩野氏が本で述べている数字が、どの程度信憑性があるのかは少し疑問があるようにも感じますが、根拠があるわけではありません。
アルプスを越えたのはハンニバルだけではありません。ナポレオンもアルプスを越えています。とすればこの両者にとってアルプスを越えることは共通の戦略的な意義もあったと考えるべきではないかとも思います。実際、イギリスの戦略家であるリデル=ハートはそのように考えているように思います。「大自然の猛威は脅威ではあるが、予測可能である。しかし、人(敵)が相手の脅威はしばしば予測ができない。」とは彼の言葉です。

投稿: 縄文人 | 2011年11月 6日 (日) 22時59分

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