« (23.8.29) 温暖化と異常気象 中国とアメリカはいつその非を悟るのか? | トップページ | (23.8.31) 日本復活か衰亡か? 野田新首相の誕生 »

(23.8.30) ちはら台発掘ものがたり 草刈遺跡群

23829_009  

 とても興味深い催し物がちはら台のコミュニティーセンター(コミセン)で行われていた。題して「ちはら台発掘ものがたり」という。ここちはら台地区はURが開発をした住宅地だが、開発に先立って大規模な発掘作業が教育振興財団のもとに行われた。
発掘作業そのものは平成10年には終了していたのだが、そのとき発掘された土器類等を整理・分類して今回コミセンで展示会が開かれたものである。

 私はここおゆみ野の地区で発掘事業が行われていたのはよく知っており、最近では大膳野南貝塚の発掘現場を見てきたばかりだ。
しかしちはら台についてはまったく知識がなかった。
今回の展示は主として草刈遺跡群と言って、現在の京成ちはら台駅周辺にあった遺跡から出た出土品からなる。

 最初に驚いたのはここ草刈遺跡旧石器時代から始まり、縄文、弥生、古墳、奈良・平安を経て中世の始まりごろまで使用されおり、実に長期間にわたる遺跡が存在していたことだ。
ここちはら台は昔は住居に最適な場所だったんだ」しみじみと感じた。

 ちはら台に人が住み始めたのは今から3万5千万年前からだと言うから実に古い。最もこの時期は定住していたわけでなく木の実や動物の捕獲ができる時期だけこの地にとどまっていたのだそうだ。
当時の遺物としては黒曜石の鏃やじり)がたくさん見つかっている。

 定住が始まったのは今から4700年前縄文中期中葉という)頃からで、突如ここ草刈遺跡に人が集団で生活するようになったと言う。
その頃は草刈遺跡のすぐ下まで海が迫っており干潟が広がっていたそうで、縄文人は貝や魚、ドングリや芋類、そしてイノシシや鹿の肉を食べて生活していたと言う。

 縄文土器を使った鍋料理でこうした腹を満たしていたと言うから相当グルメだ。
村にはリーダーがおり、腰に鹿の骨で作った腰飾りをつけていた。
東京湾の千葉県側にはこうした村が40箇所できていたそうだから、かなり人口密度の高い地域だったことになる。
各村の間には行き来があり、その結果この時代の遺跡はほとんど同じような遺物が出土すると言う。

23829_008  

 今から2200年ぐらい前になると房総半島に稲作作りが伝わってきたと言う。当初は内房地域の河川下流の低地に広がり、それが徐々に内陸方面まで広がっていったのだと言う。
私が一番分からないのはこの稲作つくりの伝播方法だ。
一体なぜ稲作つくりと言うような高度な知識がこの房総という当時では僻地と言ってよいような土地に伝わったのだろうか。

 これは私の想像だが当初は九州に上陸した弥生人が稲作を始めたのだが、その土地で食い詰めた(農地をあてがわれなかった)人々が当時縄文時代人が住んでいた東へ東へと移住して混血を繰り返したのではなかろうか。

次郎、三郎、おめえたちの耕す農地はここ筑後川の流域にはもうねえ、東に行って農地を見つけて稲作をしろ
しかし一郎兄ちゃん、あっちには縄文時代人と言うおっかねえ連中がいて、弓矢で狩をしているよ
大丈夫だ、あいつらは低地には住まねえ。川の下流域はイノシシもドングリもないからだ。お前たちは下流域で稲作をして、できた米を縄文時代人に分けてやれば、あいつらも喜んで迎えてくれる。それに縄文時代人の女子(おなご)はほりが深くてべっぴんだぞ
なんて感じではなかったかと想像している。

 弥生時代に入るとここちはら台の人口は急増し、1000軒以上の家の跡が発見されており数千人規模の人々が住んでいたと言うから半端ではない。
こうなると現在の村程度の規模だし、当然村長は必要だし、占いのぼっ骨も発見されているから、当然占い師もいたことになる。
ほとんど邪馬台国の卑弥呼の世界で、「実は魏志倭人伝の世界は北九州でも大和でもなく、ここちはら台にあった」と言う新説を立てたくなるような規模だ。

23829_010  

 古墳時代になるとちはら台はさらに発展することになる。すでに古墳時代の初め3世紀中ごろには青銅製の鏡や鏃が多く出土しており、その多くがちはら台から出ているのだと言う。
また5世紀ごろにはカマドが伝播し、今日と同じような様式で料理ができるようになったのだと言う。
さらに最先端技術である鉄器製作のための鍛冶屋がこの頃から存在し、古墳の数も180基に達すると言う。

 私がとても不思議に思うのはどのような経路で鏡が伝えられ、又カマドや鍛冶屋や古墳が作られるようになったのだろうか。
パンフレットを見ると「1600年前のニュータウン」がちはら台に存在したと言うのだが、ニュータウンを支えた技術群はどの様にして伝えられたのだろうか。

もうしあげます、大和と称するところから変な光るものや、ハウスキッチンや非常に硬い刀剣を持った使節団と称するものが来ていますが、どのような対応をすればよいでしょうか
まあ、何か知らないが遠くから来たと言うのだから会うだけは会ってみよう


わが大和の大君がちはら台の大君に鏡と刀剣とグルメ料理を授けるように私、大和の臣たけるに命じて派遣したのでございます
大和か何か知らないが、この鏡と称する光るものと刀剣はすばらしいものじゃの。これをもらってもいいのか
はい、一つだけお約束いただければ
約束とはなんじゃ、早く申せ

今後は大和政権の一員として国造(くにのみやっこ)となり、争いごとが発生したときは大和の一員として共に戦うことをお約束ください
国造なんて称号がなくても俺は一向に構わないのだが、もし断ったらどうする
そのときは隣のおゆみ野の族長次郎に国造になっていただきます。ちはら台の族長がおゆみ野の族長の下になってもよろしいのですか
何でもいいのだが、次郎に負けるのだけは嫌だ。なら大和の国造になろう
なんて感じだったのだろうか。

 その後、奈良・平安時代になっても規模は縮小されたがここ草刈遺跡には人がすみ続け、ここは草刈村と言われていたと言う。
主な産業は農作業の他に屋根瓦を製造するための瓦窯が有ったと言うから相当先進的な地域だ。
この瓦は上総国分寺屋根瓦を飾っていたと言う。

 そしてここちはら台の高台は中世になると人々がより便利な平地に降りていってしまったため、うち捨てられ再び脚光を浴びたのは平成のURによる住宅開発までほぼ1000年の眠りについたことになる。

注)なお、おゆみ野大膳野南貝塚遺跡については以下参照http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/2337-3bf6.html

 

 

 

 

 

 

|

« (23.8.29) 温暖化と異常気象 中国とアメリカはいつその非を悟るのか? | トップページ | (23.8.31) 日本復活か衰亡か? 野田新首相の誕生 »

歴史 郷土史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« (23.8.29) 温暖化と異常気象 中国とアメリカはいつその非を悟るのか? | トップページ | (23.8.31) 日本復活か衰亡か? 野田新首相の誕生 »