« (23.3.6) 袖ヶ浦市 里山を歩く会の古道の整備 | トップページ | (23.3.8) 日本政治衰亡史 前原誠司外相の辞任 »

(23.3.7) 大膳野(だいぜんの)南貝塚の発掘調査  おゆみ野縄文文化の興亡

2336_002
(大膳野南貝塚の全景

 私がかねがね残念に思っていたことは、ここおゆみ野が昔から単なる野原で戦国時代の居城や戦場とはまったく無縁の場所だということだった。
江戸時代もここは雑草地で周囲の農民が共同の入会地として薪や牛の餌の草を求めていたところだから、なんとも歴史的華々しさがない。

注)近くに生実(小弓)城跡があるが、おゆみ野の街の外側になる。

名所旧跡と無関係でおゆみ野を宣伝することもできない」そう思っていたがこれがまったくの誤解であることが分かった。
この一帯は縄文時代には多くの人々が住んだ文化の中心地のひとつだったからだ。

 おゆみ野地区は今はUR都市機構によって平らな住宅地に変貌しているが、かつては小高い丘と谷津が入り組んだ変化に富んだ地形だった。
栗や胡桃も豊富でイノシシも多くいたし、さらに多くの貝を収穫することができた。

2336_001_2  (説明会の模様

 そうした場所の一つとして現在の農業試験場がある小高い丘の付近一帯に縄文前期から縄文後期5500年前から4000年まえまで)にかけて多くの縄文時代人が住んでいた住居跡が発掘された。
大膳野だいぜんの南貝塚で、ここから約20体の人骨や鹿やイノシシの獣骨が発見され、さらに漆喰で地面を固めた住居跡まで見つかり一躍脚光を浴びることになった。

 5日、ここ大膳野南貝塚の発掘現場を一般公開していると教えてくれたのは地区の情報に詳しいKさんで、KさんはNHKの地方版を見てこの情報を入手した。
3時まで説明会をしていますよ」さっそく自転車で出かけていった。

 私はこの発掘現場はJOGコースなのでよく知っていたが、いつもの住宅地を整備する前の形式的な発掘だろうぐらいに思っていた。
しかし今回の発見でこの地帯が縄文時代を代表する遺跡の一つになるかもしれないという事実に驚いた。
大発見」なのだ。

 この場所は村田川の支流に向かってなだらかに傾斜している南斜面で、夕方になると富士山が赤く染まって見えるビュウポイントの一つである。
発掘を担当した考古学者の一人が「縄文時代人はいつも富士山を眺めては日々の労働にいそしんでいたはずで、富士山がすきなのは日本人のDNAに刷り込まれた性格だ」と説明していた。

2336_007_2
発見された人骨

 私が特に感動したのは今から4000年前の埋葬された人骨が発掘現場で見ることができたことだ。
ほとんど現代人と変わらない体格の人骨が足を伸ばし、手を胸の前で組んで埋葬されていた。
通常人骨は酸性土壌では100年程度で土に帰るそうだが、ここは貝塚になっており貝殻がアルカリ性のためいつまでも人骨が残るのだという。

 この場所は当時は海から約3km程度奥まったところだったから、東京湾岸の貝塚としては海から最も離れている。
当時の縄文時代人はアサリを取りに集団で海まで行き、取ったアサリを村田川沿いに小型の船のようなもので引っ張ってここまで運んだのだろう」と説明者が言っていた。

 そのアサリのおかげで私は4000年前の人骨と対面できたのだが、NHKがかつて放映した西域楼蘭の皇女をみたような気持ちになってしまった。

2336_006_2
住居跡

 今まではおゆみ野の歴史性のなさにがっくりしていたが、今回の発掘調査結果を見て認識を新たにした。
ここは縄文時代は文化の中心地だったのだ。青森の三内丸山と同じじゃないか・・・
勝手に舞い上がってしまったが、自分が住んでいる場所にこうした遺跡が発見されると愛着心がますます高まってしまう。

注)縄文時代には多くの人が住んでいたのに、その後この地区は文明の中心から外れる。その最大の原因は農耕に適さないからで、村田川や養老川の河口付近に稲作を中心とする弥生文化が花開くとおゆみ野縄文文化は廃れた。

なお、本件と関連有るブログは以下の通り
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/oyuminoshikinomichi/cat43042375/index.html


 

 

|

« (23.3.6) 袖ヶ浦市 里山を歩く会の古道の整備 | トップページ | (23.3.8) 日本政治衰亡史 前原誠司外相の辞任 »

歴史 郷土史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« (23.3.6) 袖ヶ浦市 里山を歩く会の古道の整備 | トップページ | (23.3.8) 日本政治衰亡史 前原誠司外相の辞任 »