« (23.3.5) 勝浦ビッグひな祭りに今年も行ってきた | トップページ | (23.3.7) 大膳野(だいぜんの)南貝塚の発掘調査  おゆみ野縄文文化の興亡 »

(23.3.6) 袖ヶ浦市 里山を歩く会の古道の整備

2334_001
(袖ヶ浦市久保田地区。里山を歩く会の住民が住んでいる場所

 袖ヶ浦市といえば東京湾に面した京葉工業地帯の只中に有る市で、石油コンビナートが立ち並んでいる所と思っていたが、それはこの市の一部でしかないことを始めて知った。

 先日千葉大園芸学部の学生のフィールドコラボレーションと言う授業(ボランティア団体に出かけていって一緒に作業をする授業)の受け入れ団体として知り合った袖ヶ浦市の「里山を歩く会」におゆみ野の森インストラクターSさん委員のKさんと私の3人で見学に行った。

 インストラクターのSさんが「とてもすばらしい活動場所で一見に値する」と推奨してくれたからである。
工業地帯に里山があるのだろうか???」と私は思っていたが、工業地帯のある場所は埋立地で元々の袖ヶ浦は低い山並み(丘陵)が海に迫っていた場所だった。

 そして「里山を歩く会」の住民が住んでいる久保田地区は海側だけが開けて、後の三方は山に囲まれた盆地状の場所だった。
会長のWさんの説明によると「袖ヶ浦の工業地帯に勤める人たちのために昭和40年代に開発された団地」だという。

 この時代に開発された団地はどこも高齢化の波に洗われているが、ここ久保田地区も同様な状態であるらしく、「里山を歩く会」の参加メンバーはかなり高齢化していた。
しかしその意気や若者のそれだった。

2334_010
里山を歩く会が整備している梅林

 取り巻く山並みのそば道を次々に草や蔓を払って整備して、この地区の人が山歩きを楽しくできるように階段や手すりまで作っていた。
私達も会長のWさんに案内されて歩いてみたが、驚くべきタフなコースで1周すると2時間程度かかる。
こんな低い山並みなのに、道は奥多摩並じゃないか・・・・・・

 かつて農家が健在だった頃は山頂付近に梅や柿や栗の果樹園を作っていたり、茶を栽培したりしたが高齢化と後継者不足と他により良い職場が確保されたためすっかり荒れ果て、かつての農道も果樹園も荒れるに任せていたらしい。

 その現状を見かねた久保田地区の住民(会員は56名)が10年ほど前からまず道の草刈を行って散歩道を整備し、地主の許可を得て荒れ果てていた果樹園を再生する活動を始めたという。

 私達が案内された梅園や柿園は下草が綺麗に刈り取られ、梅の花が満開だった。
いい場所でしょう」インストラクターのSさんが目を細めて私に言った。
Sさんはここの活動にもインストラクターとして関係している。

2334_006
子供が木登りをして遊ぶ場所。Sさんがチェックをしている

 さらに信じられないことには鎌倉街道を再整備したという。かつて鎌倉時代には鎌倉幕府と地方の御家人の所領を結ぶ街道が何本も整備されたのだが、その一つが袖ヶ浦から市原市を通って鎌倉に向かって伸びていたという。
かつて上総は鎌倉幕府きっての御家人、上総広常の地盤だったから「いざ鎌倉」のために道路が整備されていたのだろう。

 その鎌倉街道が雑草に覆われて道すら分からなくなっていたのを、ここ里山を歩く会のメンバーが約1km程度にわたって、草と蔓を払って鎌倉時代の道を再現していた。
すごいじゃないか」思わず声が出た。
ボランティア団体がここまでできるのだという見本のような場所だ。

 この場所を始めて知ったkさんも私も貴重な経験に感謝してかえって来た。

なお、本件と関連の有るブログは以下のURL参照。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/cat30931010/index.html


 


 

 

 

|

« (23.3.5) 勝浦ビッグひな祭りに今年も行ってきた | トップページ | (23.3.7) 大膳野(だいぜんの)南貝塚の発掘調査  おゆみ野縄文文化の興亡 »

ボランティア おゆみ野の森 活動の交流」カテゴリの記事

コメント

お疲れさまでした!
里山を歩く会のブログはこちらです→ http://satoyamawk.exblog.jp/
ちなみに僕はただ、応援してるだけです・・・

投稿: ささき | 2011年3月 7日 (月) 14時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: (23.3.6) 袖ヶ浦市 里山を歩く会の古道の整備:

« (23.3.5) 勝浦ビッグひな祭りに今年も行ってきた | トップページ | (23.3.7) 大膳野(だいぜんの)南貝塚の発掘調査  おゆみ野縄文文化の興亡 »